紀州雑賀党と根来衆
信長は伊勢長島、越前、加賀と一向一揆の根拠地を時間をかけて1つずつ潰していった。門徒衆は頑強に抵抗したが、ある時を過ぎるとすっかり抵抗を止め、家畜のようにおとなしくなり手に穴を開けて数珠つなぎにされても逆らわない。虫けらのように一方的に殺された。現世に嫌気が差したんだろう。織田軍団は常備軍で年中殺しまくっているから、機械的に殺戮を繰り返し女も子供も許さなかった。
しかし長島一揆の最終戦で珍事が起きた。包囲され餓死者を出すようになった門徒が、砦からの退去を申し出た。信長は断固として許さず、囲いを出た門徒を待ち構えて鉄砲で狙い撃ちした。この時、顕忍や下間頼旦といった指導者が多くの門徒と共に討ちとられた。この仕打ちに怒った門徒800人が丸裸に大刀を持って織田勢の手薄な所に切り込んだ。この捨て身の攻撃で織田の名のつく武将が6人も討ち死にしている。信長の庶兄である信広、弟の秀成と従兄弟が二人などだ。この800人の一部は囲みを破り大阪に逃亡した。信長は残った2城を幾重にも柵で囲み、焚き木を山ほど集めて火をつけ2万の男女を焼き殺した。
さて木津川口の海戦だ。石山本願寺にこもる万を超える門徒衆の兵糧を運びこむため、毛利、小早川、村上水軍(瀬戸内海の海賊)、雑賀党の小早舟800そうが毛利の用意した兵糧船数百そうを護衛して、阻止しようとする織田水軍300そうと激突した。その結果織田水軍は全滅し、大将の真鍋七五三兵衛以下主だった将は全て戦死した。海戦に慣れ、操船技術の優れた毛利方に劣勢の織田水軍がかなうはずがない。琵琶湖の湖賊は瀬戸内海賊の敵ではない。思うように動き廻られ、火矢、焙烙玉、焙烙火矢を打ち込まれ放り込まれて織田方の小早舟は燃え上がった。海戦では良くある事だが、片方は無傷に近く片方は全滅というパターンだ。東郷平八郎の日本海海戦と同じ結果だ。信長の生涯を通じて、これほどまでに惨めな敗戦は珍しい。
しかしそれで引き下がらないのが信長だ。九鬼水軍の長、九鬼嘉隆に命じて世界初の鉄甲船を作り、大砲を搭載して2年後毛利水軍を再度木津川口で待ち受けた。毛利水軍は、木津川口に特大の大安宅船(縦22m,横12m)が6そう停泊しているのを見て、600そうの小早舟で一斉に襲いかかるが、鉄甲に覆われた船には火矢も焙烙火矢も効かない。鉄甲船から撃ち下ろす大砲の弾丸によって、次々に沈められ毛利方は大敗した。しかし動きの遅い安宅船をすり抜けて、兵糧弾薬の運び込みには相当数成功したようなので、戦略的にはかろうじて目的を果たした。海戦を知らない事を逆手に取り、常識に捕われずに船を鉄板で覆った信長の勝利だ。世界史上最初の鉄甲船である。
次に信長は、本願寺を屈服させるには雑賀の応援を断つよりないと、十万の大軍をもって紀州討伐を行う。雑賀の中郷、南郷、宮郷と根来衆は信長方につき、「雑賀荘」と「十ヶ郷」を攻めた。勝っても負けても十万の軍勢の通り道になるのでは堪らなかったんだろう。信長方についた彼らの動きは聞こえてこない。苦渋の選択であったのは間違いない。土橋、鈴木の雑賀党は、紀の川の底に壺や甕を無数に沈め、渡河してきた先頭集団がそこに足を突っ込み、後続の兵とぶつかり身動きが取れなくなったところを、川べりから撃ちすくめる。
しかし多勢に無勢、雑賀党は最終的に信長に降伏する。それにしても織田軍の損害は大きかった。信長は周囲に敵が多く、自身の猜疑心の強さと妥協を許さない性格から、何度も部下の造反を招き(松永弾正、荒木村重、高山右近、最後に明智光秀)雑賀に長く大軍を置いてはおけない。敗れた雑賀党は誓紙を入れ、今後石山方への加勢はしないと誓うが、大軍が引き揚げると早速顕如に味方し再び信長と戦う。人をくった行動だ。これでは何の為の紀州討伐か分からない。
石山合戦は10年続き、信長は身内を含め最大の損害を受けたが、武田軍が設楽が原で敗れ、上杉謙信は上洛の直前に病死。織田軍の毛利攻略は進み、四国の長宗我部討伐も準備されている。各国の一向一揆はすでに個別に討伐され、信徒は根絶やしにされつつある。勝機は過ぎた。天下は信長の手に帰しつつある。本願寺の味方は劣勢の毛利と雑賀党の一部しか残っていない。顕如は正親町天皇の仲介を受け入れ、信長と講和し石山を去って雑賀の鷺の森へ退去する。顕如の長男、教如は降伏に同意せず行き場を失った信徒といったんは石山に居座るが、結局は退く。石山の城は放火か自然火か、3日3晩に渡って燃え続けたという。本願寺はここで東と西に分かれて今日に至っているが、力を分散した形になり、時の権力者への組織的な抵抗は再びは行われなかった。武力闘争は放棄したのだ。
ちなみにこの石山の地に、秀吉が二重の堀を持つ難攻不落の大阪城を築いた。その大阪城は夏の陣で徳川家康によって焼かれ、豊臣は滅びた。その廃墟に土盛りをして築城したのが、徳川が作った今の大阪城である。信長は要となるこの土地を何としても欲しかったのだろう。10年かけて手に入れたが、2年後に本能寺で死んだ。
雑賀(鈴木)孫市は、時流を見て織田と手を結び、反織田を貫く土橋氏を謀殺する。ところが本能寺の変が起こり、信長が突然倒れたため雑賀の地を去った。別の説では、孫市はあくまで反信長を貫き、顕如を守り雑賀に迫った信長の軍勢に敵対するが陥落一歩手前迄追い詰められる。あと数日で全滅かという時に本能寺の変が起こり助かったという。この雑賀孫市という人物は、有名な割にはよく分からない人物で、京では何度も雑賀孫市の首といって河原に晒されている。活動期間が長すぎるので、複数の人物の行動が一人に集約されたものと思われる。陽気で派手好み、女好きのイメージは定着している。信長亡き後は秀吉の天下となるが、天下統一が迫り、根来衆、雑賀党の活躍の場はしだいに失われていった。
まず根来衆だが信長の死後、小牧・長久手の合戦で雑賀党と共に大阪城周辺を攻めて秀吉の心胆を寒からしめた。戦後は秀吉による紀州討伐に会う。今回も信長の時と同じ10万の大軍だが、秀吉の周囲に敵はいない。腰を据えた余裕の戦いだ。果敢に抵抗する根来衆だが、たまたま籠城する根来方の城の火薬庫に秀吉軍の火矢が飛び込み、大爆発を起こす。溢れんばかりの火薬を積み上げ、惜しげもなく秀吉の大軍勢に浴びせようとしていた矢先だ。この不幸なアクシデントで根来の精兵・鉄砲手が、備蓄した武器・弾薬と共に一気に1,800人吹っ飛んだ。
これで勝負あった。その後も雑賀党と力を合わせ、秀吉の大軍に抵抗するが、根来寺は炎上し根来衆は壊滅する。雑賀はこの時は、根来衆に近い太田党(宮郷・中郷・南郷)を中心として秀吉に対抗した。しかし12万人の工夫による水攻めに遇い徹底的に破壊された。この時秀吉側に付いていた雑賀孫市が太田党の降伏勧告に行って拒絶されたという。秀吉の討伐は徹底していて、以後鉄砲を作ることも持つことも出来なくなった。根来衆と雑賀党の組織的な活動は無くなり歴史に埋没していった。文字通り殲滅された。
全国を太閤検地と刀狩によって一律に統治しようとした秀吉にとって、根来や雑賀のような勝手気ままな集団を例外として残しておく訳にはいかない。それにやはり彼らの火力は不気味だったのだ。根来衆の残党は、徳川家康の配下に一部入ったらしく内藤新宿に根来の名前が残った。雑賀孫市の名は、石山陥落の20年後の関ヶ原の合戦で、西軍の大軍が小勢の鳥居元忠の伏見城を踏みつぶす際に、鳥居を討ち取ったとして出てくる。これは年齢的にはきつい。二代目か他の孫市だろう。さて話しも大詰めに来てしまった。戦国の快男児、雑賀孫市は伊達正宗に取りたてられ騎馬鉄砲術を伝授し、その騎馬鉄砲隊は大阪・夏の陣で活躍したという。その後正宗の取りなしで徳川家に仕え、水戸藩の旗本として余生を過ごしたという。水戸藩鈴木家は名字を雑賀と改め、重臣として代々の当主は孫市を通称としたという。
最後は家康か。いっそベトナム辺りの日本人町に自慢の名銃『愛山護法』を携えて現れ、面白おかしく暮らしていてくれたらなー。そんな史料が出てこないかな。日本が近代化(管理社会化)して、上からの指示に従順な、みんなで良い子ロボット団のような社会になるちょっと前に、自分の意志で物事を決め、自らの生き方を選び、支配者を追い払って共和制の国や百姓の持ちたる国を作った日本人がいた事を、ちょっと知ってもらいたかったんだ。俺の目には彼らが、いわゆる戦国武将などよりもよほど輝いて見える。
信長は伊勢長島、越前、加賀と一向一揆の根拠地を時間をかけて1つずつ潰していった。門徒衆は頑強に抵抗したが、ある時を過ぎるとすっかり抵抗を止め、家畜のようにおとなしくなり手に穴を開けて数珠つなぎにされても逆らわない。虫けらのように一方的に殺された。現世に嫌気が差したんだろう。織田軍団は常備軍で年中殺しまくっているから、機械的に殺戮を繰り返し女も子供も許さなかった。
しかし長島一揆の最終戦で珍事が起きた。包囲され餓死者を出すようになった門徒が、砦からの退去を申し出た。信長は断固として許さず、囲いを出た門徒を待ち構えて鉄砲で狙い撃ちした。この時、顕忍や下間頼旦といった指導者が多くの門徒と共に討ちとられた。この仕打ちに怒った門徒800人が丸裸に大刀を持って織田勢の手薄な所に切り込んだ。この捨て身の攻撃で織田の名のつく武将が6人も討ち死にしている。信長の庶兄である信広、弟の秀成と従兄弟が二人などだ。この800人の一部は囲みを破り大阪に逃亡した。信長は残った2城を幾重にも柵で囲み、焚き木を山ほど集めて火をつけ2万の男女を焼き殺した。
さて木津川口の海戦だ。石山本願寺にこもる万を超える門徒衆の兵糧を運びこむため、毛利、小早川、村上水軍(瀬戸内海の海賊)、雑賀党の小早舟800そうが毛利の用意した兵糧船数百そうを護衛して、阻止しようとする織田水軍300そうと激突した。その結果織田水軍は全滅し、大将の真鍋七五三兵衛以下主だった将は全て戦死した。海戦に慣れ、操船技術の優れた毛利方に劣勢の織田水軍がかなうはずがない。琵琶湖の湖賊は瀬戸内海賊の敵ではない。思うように動き廻られ、火矢、焙烙玉、焙烙火矢を打ち込まれ放り込まれて織田方の小早舟は燃え上がった。海戦では良くある事だが、片方は無傷に近く片方は全滅というパターンだ。東郷平八郎の日本海海戦と同じ結果だ。信長の生涯を通じて、これほどまでに惨めな敗戦は珍しい。
しかしそれで引き下がらないのが信長だ。九鬼水軍の長、九鬼嘉隆に命じて世界初の鉄甲船を作り、大砲を搭載して2年後毛利水軍を再度木津川口で待ち受けた。毛利水軍は、木津川口に特大の大安宅船(縦22m,横12m)が6そう停泊しているのを見て、600そうの小早舟で一斉に襲いかかるが、鉄甲に覆われた船には火矢も焙烙火矢も効かない。鉄甲船から撃ち下ろす大砲の弾丸によって、次々に沈められ毛利方は大敗した。しかし動きの遅い安宅船をすり抜けて、兵糧弾薬の運び込みには相当数成功したようなので、戦略的にはかろうじて目的を果たした。海戦を知らない事を逆手に取り、常識に捕われずに船を鉄板で覆った信長の勝利だ。世界史上最初の鉄甲船である。
次に信長は、本願寺を屈服させるには雑賀の応援を断つよりないと、十万の大軍をもって紀州討伐を行う。雑賀の中郷、南郷、宮郷と根来衆は信長方につき、「雑賀荘」と「十ヶ郷」を攻めた。勝っても負けても十万の軍勢の通り道になるのでは堪らなかったんだろう。信長方についた彼らの動きは聞こえてこない。苦渋の選択であったのは間違いない。土橋、鈴木の雑賀党は、紀の川の底に壺や甕を無数に沈め、渡河してきた先頭集団がそこに足を突っ込み、後続の兵とぶつかり身動きが取れなくなったところを、川べりから撃ちすくめる。
しかし多勢に無勢、雑賀党は最終的に信長に降伏する。それにしても織田軍の損害は大きかった。信長は周囲に敵が多く、自身の猜疑心の強さと妥協を許さない性格から、何度も部下の造反を招き(松永弾正、荒木村重、高山右近、最後に明智光秀)雑賀に長く大軍を置いてはおけない。敗れた雑賀党は誓紙を入れ、今後石山方への加勢はしないと誓うが、大軍が引き揚げると早速顕如に味方し再び信長と戦う。人をくった行動だ。これでは何の為の紀州討伐か分からない。
石山合戦は10年続き、信長は身内を含め最大の損害を受けたが、武田軍が設楽が原で敗れ、上杉謙信は上洛の直前に病死。織田軍の毛利攻略は進み、四国の長宗我部討伐も準備されている。各国の一向一揆はすでに個別に討伐され、信徒は根絶やしにされつつある。勝機は過ぎた。天下は信長の手に帰しつつある。本願寺の味方は劣勢の毛利と雑賀党の一部しか残っていない。顕如は正親町天皇の仲介を受け入れ、信長と講和し石山を去って雑賀の鷺の森へ退去する。顕如の長男、教如は降伏に同意せず行き場を失った信徒といったんは石山に居座るが、結局は退く。石山の城は放火か自然火か、3日3晩に渡って燃え続けたという。本願寺はここで東と西に分かれて今日に至っているが、力を分散した形になり、時の権力者への組織的な抵抗は再びは行われなかった。武力闘争は放棄したのだ。
ちなみにこの石山の地に、秀吉が二重の堀を持つ難攻不落の大阪城を築いた。その大阪城は夏の陣で徳川家康によって焼かれ、豊臣は滅びた。その廃墟に土盛りをして築城したのが、徳川が作った今の大阪城である。信長は要となるこの土地を何としても欲しかったのだろう。10年かけて手に入れたが、2年後に本能寺で死んだ。
雑賀(鈴木)孫市は、時流を見て織田と手を結び、反織田を貫く土橋氏を謀殺する。ところが本能寺の変が起こり、信長が突然倒れたため雑賀の地を去った。別の説では、孫市はあくまで反信長を貫き、顕如を守り雑賀に迫った信長の軍勢に敵対するが陥落一歩手前迄追い詰められる。あと数日で全滅かという時に本能寺の変が起こり助かったという。この雑賀孫市という人物は、有名な割にはよく分からない人物で、京では何度も雑賀孫市の首といって河原に晒されている。活動期間が長すぎるので、複数の人物の行動が一人に集約されたものと思われる。陽気で派手好み、女好きのイメージは定着している。信長亡き後は秀吉の天下となるが、天下統一が迫り、根来衆、雑賀党の活躍の場はしだいに失われていった。
まず根来衆だが信長の死後、小牧・長久手の合戦で雑賀党と共に大阪城周辺を攻めて秀吉の心胆を寒からしめた。戦後は秀吉による紀州討伐に会う。今回も信長の時と同じ10万の大軍だが、秀吉の周囲に敵はいない。腰を据えた余裕の戦いだ。果敢に抵抗する根来衆だが、たまたま籠城する根来方の城の火薬庫に秀吉軍の火矢が飛び込み、大爆発を起こす。溢れんばかりの火薬を積み上げ、惜しげもなく秀吉の大軍勢に浴びせようとしていた矢先だ。この不幸なアクシデントで根来の精兵・鉄砲手が、備蓄した武器・弾薬と共に一気に1,800人吹っ飛んだ。
これで勝負あった。その後も雑賀党と力を合わせ、秀吉の大軍に抵抗するが、根来寺は炎上し根来衆は壊滅する。雑賀はこの時は、根来衆に近い太田党(宮郷・中郷・南郷)を中心として秀吉に対抗した。しかし12万人の工夫による水攻めに遇い徹底的に破壊された。この時秀吉側に付いていた雑賀孫市が太田党の降伏勧告に行って拒絶されたという。秀吉の討伐は徹底していて、以後鉄砲を作ることも持つことも出来なくなった。根来衆と雑賀党の組織的な活動は無くなり歴史に埋没していった。文字通り殲滅された。
全国を太閤検地と刀狩によって一律に統治しようとした秀吉にとって、根来や雑賀のような勝手気ままな集団を例外として残しておく訳にはいかない。それにやはり彼らの火力は不気味だったのだ。根来衆の残党は、徳川家康の配下に一部入ったらしく内藤新宿に根来の名前が残った。雑賀孫市の名は、石山陥落の20年後の関ヶ原の合戦で、西軍の大軍が小勢の鳥居元忠の伏見城を踏みつぶす際に、鳥居を討ち取ったとして出てくる。これは年齢的にはきつい。二代目か他の孫市だろう。さて話しも大詰めに来てしまった。戦国の快男児、雑賀孫市は伊達正宗に取りたてられ騎馬鉄砲術を伝授し、その騎馬鉄砲隊は大阪・夏の陣で活躍したという。その後正宗の取りなしで徳川家に仕え、水戸藩の旗本として余生を過ごしたという。水戸藩鈴木家は名字を雑賀と改め、重臣として代々の当主は孫市を通称としたという。
最後は家康か。いっそベトナム辺りの日本人町に自慢の名銃『愛山護法』を携えて現れ、面白おかしく暮らしていてくれたらなー。そんな史料が出てこないかな。日本が近代化(管理社会化)して、上からの指示に従順な、みんなで良い子ロボット団のような社会になるちょっと前に、自分の意志で物事を決め、自らの生き方を選び、支配者を追い払って共和制の国や百姓の持ちたる国を作った日本人がいた事を、ちょっと知ってもらいたかったんだ。俺の目には彼らが、いわゆる戦国武将などよりもよほど輝いて見える。