旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

紀州雑賀党と根来衆 - 続き

2015年11月21日 12時29分36秒 | エッセイ
紀州雑賀党と根来衆

 信長は伊勢長島、越前、加賀と一向一揆の根拠地を時間をかけて1つずつ潰していった。門徒衆は頑強に抵抗したが、ある時を過ぎるとすっかり抵抗を止め、家畜のようにおとなしくなり手に穴を開けて数珠つなぎにされても逆らわない。虫けらのように一方的に殺された。現世に嫌気が差したんだろう。織田軍団は常備軍で年中殺しまくっているから、機械的に殺戮を繰り返し女も子供も許さなかった。
 しかし長島一揆の最終戦で珍事が起きた。包囲され餓死者を出すようになった門徒が、砦からの退去を申し出た。信長は断固として許さず、囲いを出た門徒を待ち構えて鉄砲で狙い撃ちした。この時、顕忍や下間頼旦といった指導者が多くの門徒と共に討ちとられた。この仕打ちに怒った門徒800人が丸裸に大刀を持って織田勢の手薄な所に切り込んだ。この捨て身の攻撃で織田の名のつく武将が6人も討ち死にしている。信長の庶兄である信広、弟の秀成と従兄弟が二人などだ。この800人の一部は囲みを破り大阪に逃亡した。信長は残った2城を幾重にも柵で囲み、焚き木を山ほど集めて火をつけ2万の男女を焼き殺した。

 さて木津川口の海戦だ。石山本願寺にこもる万を超える門徒衆の兵糧を運びこむため、毛利、小早川、村上水軍(瀬戸内海の海賊)、雑賀党の小早舟800そうが毛利の用意した兵糧船数百そうを護衛して、阻止しようとする織田水軍300そうと激突した。その結果織田水軍は全滅し、大将の真鍋七五三兵衛以下主だった将は全て戦死した。海戦に慣れ、操船技術の優れた毛利方に劣勢の織田水軍がかなうはずがない。琵琶湖の湖賊は瀬戸内海賊の敵ではない。思うように動き廻られ、火矢、焙烙玉、焙烙火矢を打ち込まれ放り込まれて織田方の小早舟は燃え上がった。海戦では良くある事だが、片方は無傷に近く片方は全滅というパターンだ。東郷平八郎の日本海海戦と同じ結果だ。信長の生涯を通じて、これほどまでに惨めな敗戦は珍しい。
 しかしそれで引き下がらないのが信長だ。九鬼水軍の長、九鬼嘉隆に命じて世界初の鉄甲船を作り、大砲を搭載して2年後毛利水軍を再度木津川口で待ち受けた。毛利水軍は、木津川口に特大の大安宅船(縦22m,横12m)が6そう停泊しているのを見て、600そうの小早舟で一斉に襲いかかるが、鉄甲に覆われた船には火矢も焙烙火矢も効かない。鉄甲船から撃ち下ろす大砲の弾丸によって、次々に沈められ毛利方は大敗した。しかし動きの遅い安宅船をすり抜けて、兵糧弾薬の運び込みには相当数成功したようなので、戦略的にはかろうじて目的を果たした。海戦を知らない事を逆手に取り、常識に捕われずに船を鉄板で覆った信長の勝利だ。世界史上最初の鉄甲船である。
 次に信長は、本願寺を屈服させるには雑賀の応援を断つよりないと、十万の大軍をもって紀州討伐を行う。雑賀の中郷、南郷、宮郷と根来衆は信長方につき、「雑賀荘」と「十ヶ郷」を攻めた。勝っても負けても十万の軍勢の通り道になるのでは堪らなかったんだろう。信長方についた彼らの動きは聞こえてこない。苦渋の選択であったのは間違いない。土橋、鈴木の雑賀党は、紀の川の底に壺や甕を無数に沈め、渡河してきた先頭集団がそこに足を突っ込み、後続の兵とぶつかり身動きが取れなくなったところを、川べりから撃ちすくめる。
 しかし多勢に無勢、雑賀党は最終的に信長に降伏する。それにしても織田軍の損害は大きかった。信長は周囲に敵が多く、自身の猜疑心の強さと妥協を許さない性格から、何度も部下の造反を招き(松永弾正、荒木村重、高山右近、最後に明智光秀)雑賀に長く大軍を置いてはおけない。敗れた雑賀党は誓紙を入れ、今後石山方への加勢はしないと誓うが、大軍が引き揚げると早速顕如に味方し再び信長と戦う。人をくった行動だ。これでは何の為の紀州討伐か分からない。
 石山合戦は10年続き、信長は身内を含め最大の損害を受けたが、武田軍が設楽が原で敗れ、上杉謙信は上洛の直前に病死。織田軍の毛利攻略は進み、四国の長宗我部討伐も準備されている。各国の一向一揆はすでに個別に討伐され、信徒は根絶やしにされつつある。勝機は過ぎた。天下は信長の手に帰しつつある。本願寺の味方は劣勢の毛利と雑賀党の一部しか残っていない。顕如は正親町天皇の仲介を受け入れ、信長と講和し石山を去って雑賀の鷺の森へ退去する。顕如の長男、教如は降伏に同意せず行き場を失った信徒といったんは石山に居座るが、結局は退く。石山の城は放火か自然火か、3日3晩に渡って燃え続けたという。本願寺はここで東と西に分かれて今日に至っているが、力を分散した形になり、時の権力者への組織的な抵抗は再びは行われなかった。武力闘争は放棄したのだ。
 ちなみにこの石山の地に、秀吉が二重の堀を持つ難攻不落の大阪城を築いた。その大阪城は夏の陣で徳川家康によって焼かれ、豊臣は滅びた。その廃墟に土盛りをして築城したのが、徳川が作った今の大阪城である。信長は要となるこの土地を何としても欲しかったのだろう。10年かけて手に入れたが、2年後に本能寺で死んだ。
 雑賀(鈴木)孫市は、時流を見て織田と手を結び、反織田を貫く土橋氏を謀殺する。ところが本能寺の変が起こり、信長が突然倒れたため雑賀の地を去った。別の説では、孫市はあくまで反信長を貫き、顕如を守り雑賀に迫った信長の軍勢に敵対するが陥落一歩手前迄追い詰められる。あと数日で全滅かという時に本能寺の変が起こり助かったという。この雑賀孫市という人物は、有名な割にはよく分からない人物で、京では何度も雑賀孫市の首といって河原に晒されている。活動期間が長すぎるので、複数の人物の行動が一人に集約されたものと思われる。陽気で派手好み、女好きのイメージは定着している。信長亡き後は秀吉の天下となるが、天下統一が迫り、根来衆、雑賀党の活躍の場はしだいに失われていった。
 まず根来衆だが信長の死後、小牧・長久手の合戦で雑賀党と共に大阪城周辺を攻めて秀吉の心胆を寒からしめた。戦後は秀吉による紀州討伐に会う。今回も信長の時と同じ10万の大軍だが、秀吉の周囲に敵はいない。腰を据えた余裕の戦いだ。果敢に抵抗する根来衆だが、たまたま籠城する根来方の城の火薬庫に秀吉軍の火矢が飛び込み、大爆発を起こす。溢れんばかりの火薬を積み上げ、惜しげもなく秀吉の大軍勢に浴びせようとしていた矢先だ。この不幸なアクシデントで根来の精兵・鉄砲手が、備蓄した武器・弾薬と共に一気に1,800人吹っ飛んだ。
 これで勝負あった。その後も雑賀党と力を合わせ、秀吉の大軍に抵抗するが、根来寺は炎上し根来衆は壊滅する。雑賀はこの時は、根来衆に近い太田党(宮郷・中郷・南郷)を中心として秀吉に対抗した。しかし12万人の工夫による水攻めに遇い徹底的に破壊された。この時秀吉側に付いていた雑賀孫市が太田党の降伏勧告に行って拒絶されたという。秀吉の討伐は徹底していて、以後鉄砲を作ることも持つことも出来なくなった。根来衆と雑賀党の組織的な活動は無くなり歴史に埋没していった。文字通り殲滅された。
 全国を太閤検地と刀狩によって一律に統治しようとした秀吉にとって、根来や雑賀のような勝手気ままな集団を例外として残しておく訳にはいかない。それにやはり彼らの火力は不気味だったのだ。根来衆の残党は、徳川家康の配下に一部入ったらしく内藤新宿に根来の名前が残った。雑賀孫市の名は、石山陥落の20年後の関ヶ原の合戦で、西軍の大軍が小勢の鳥居元忠の伏見城を踏みつぶす際に、鳥居を討ち取ったとして出てくる。これは年齢的にはきつい。二代目か他の孫市だろう。さて話しも大詰めに来てしまった。戦国の快男児、雑賀孫市は伊達正宗に取りたてられ騎馬鉄砲術を伝授し、その騎馬鉄砲隊は大阪・夏の陣で活躍したという。その後正宗の取りなしで徳川家に仕え、水戸藩の旗本として余生を過ごしたという。水戸藩鈴木家は名字を雑賀と改め、重臣として代々の当主は孫市を通称としたという。
 最後は家康か。いっそベトナム辺りの日本人町に自慢の名銃『愛山護法』を携えて現れ、面白おかしく暮らしていてくれたらなー。そんな史料が出てこないかな。日本が近代化(管理社会化)して、上からの指示に従順な、みんなで良い子ロボット団のような社会になるちょっと前に、自分の意志で物事を決め、自らの生き方を選び、支配者を追い払って共和制の国や百姓の持ちたる国を作った日本人がいた事を、ちょっと知ってもらいたかったんだ。俺の目には彼らが、いわゆる戦国武将などよりもよほど輝いて見える。



紀州雑賀党と根来衆

2015年11月21日 12時29分28秒 | エッセイ
紀州雑賀党と根来衆

 雑賀=サイカ、根来=ネゴロ。ハイ、読めた人は手を上げて。横須賀にはサイカヤデパートがあるよね。馬喰町の糸編問屋街に行くと、根来という店があるよ。昔から紀州商人といって商業の盛んな地域だったんだ。あと銚子の方で漁の方法を教えたのも、この人達だったな。移民として海外移住をした人達もたくさんいたらしい。
 コセコセチラチラと上の人間ばかり見ている連中とは、スケールが違うんだな、この人たちは。何しろ自分達を従わせ、年貢を取り立てる領主がいない。海賊、交易、傭兵、戦国の世に荒稼ぎして高笑い。特殊技能、鉄砲を売り込む先は、織田でも三好でも木下でも構わない。敵も味方もあるものか。競わせて鉄砲衆を雇う金を釣り上げよう。戦場で雑賀の八咫烏(ヤタ烏,三本脚の太陽の使い)の旗が攻め口に上がるのを見た武将は、げんなりとした。手足や顔を打ち砕かれた味方の姿はいやというほど見てきた。おまけにあの凄まじい銃撃音と硝煙の臭いで足軽共が怖気づく。
 銃撃を避ける為に竹を二重に編んだ竹束を構えて近づくと、バラ玉を込めた散弾を、竹を結えたひもに向かって打つため竹束はバラバラになる。姿を現した兵は一人また一人と狙撃され倒れる。頑丈な大楯を持って近づくと、大筒を頭上に打ち込む。炸裂した砲弾は一発で多数の武者を殺傷する。ヤタ烏の旗に近づくにつれ、火縄のついた手榴弾、焙烙火矢を放り込まれ、一矢も打ち込めずに死体と手負いの山となる。雑賀衆は豊富な火薬と弾丸を祭りのように使う。
 鉄砲衆には鉄砲衆、傭兵には傭兵と根来衆を雑賀党にぶち当てる。双方凄まじい音をたてて大銃撃戦を展開し、立ち上がる硝煙で空も霞む。しかし一人の負傷も出ない。味方ではないが、隣り同士の同業者でお互いに親戚も多い。バカバカしい、殺し合っても金にはならない。派手に空砲を打ち合うんだ。雑賀衆が実用一点張りの雑賀鉢をかぶり、黒ずくめの地味な具足をつけているのに対し、根来衆の装束はど派手だ。具足の上に僧兵の装束をまとい、髪は腰まで伸ばし結って後ろに垂らす。火縄を腰にぶら下げて太刀を差し、鉄砲を担いてのし歩く。
 鉄砲を最初に種子島から紀州に持ち込んだ男は、根来衆の津田監物だ。直ぐに隣の雑賀党にも広まった。監物は根来寺門前の坂本に住んでいた堺の鍛冶、芝辻清右衛門に鉄砲の製作を命じた。雑賀党が鉄砲を自分達で製造していたのかは分からない。しかし雑賀党は金属加工に優れた技術を持っていた。一説では渡来系の技術が伝わっていたともいう。
 黒色火薬は6-7世紀に中国で発明された。原料は木炭、硫黄と硝石だ。硫黄は日本では珍しく豊富に取れる。輸出するほとんど唯一の地下資源ではないかな。国産しないのは硝石で、鉄砲の弾の原料、鉛と共に海外より輸入するのだが、海外交易を得意とする雑賀党はその点でとても有利だ。銃器の命中率を上げるには、兵器の改良と訓練が重要だが、彼らは豊富な弾丸と火薬を使って惜しげもなく訓練を重ね、十発十中の域にまで達した。
 火薬の扱いにも熟達し、湿気の多い日、乾燥した日、気温の変化に応じた調合を行う。火縄銃は先に弾を入れ、上から火薬を注ぎカルカで突き固める。火皿にも少量の火薬を入れ、引き金を下して火縄を火皿につけて発射する。一連の動作に30秒ちょっとかかる。騎馬武者なら300mは駆け進んでいる。雑賀党は弾と適量の火薬を紙でこよりのように包んだ早合を発明し、一気に突き固めるから装てんが早い。雨に日でも鉄砲に水よけの覆いをつけて使えるようにする。独立自尊の連中だから、前例に捕われず次々に創意工夫を加えていく。
 雑賀党の本領を発揮した会心の戦を紹介しよう。石山合戦に呼応して蜂起した伊勢、長島一向一揆は、最初の蜂起で信長の弟、織田信興の居城を取り囲んで、信興を自刃させている。二度目の戦でも一揆方が勝ち、殿軍の柴田勝家を負傷させた。柴田に代わって殿となって退却する氏家卜全は田の畔道に追い詰められた。退却する織田軍は泥田に足が埋まって前へ進めない。すると左右から喫水の浅い田舟が次々とこぎ寄せ、鉄砲の射程圏内を割って身動きの取れない大軍団にスルスルと近づき、舟の先頭に伏せた鉄砲放ちが落ち着いて一人また一人と打ち倒す。指揮官から先に撃ち殺してゆく。舟の後ろに伏せた雑賀衆が撃ち終わった銃を受け取り、弾込めをして戻すから間断なく発射される。織田の兵士は何の反撃も出来ずに、泥案山子のように次々と倒れてゆく。この戦で織田方の武将である氏家卜全は討ち死にした。そもそも金でしか動かないはずの雑賀衆が、石山に拠を構えた本願寺の門跡顕如の求めに応じて、金は持ち出し命をかけて信長と戦ったのだから面白い。
 しかし一筋縄ではゆかない雑賀党、一致団結して石山本願寺に合力した訳ではない。根来衆が終始一貫してその滅亡の時まで行動を共にしたのに対し、雑賀党は分裂、抗争、敵対、複雑な動きを見せる。そも雑賀をひとくくりにするのが間違っているのかもしれない。鉄砲ではなく槍で名を成した一団もいたそうだ。雑賀五搦といって雑賀は5つに分かれる。中郷(中川郷)南郷(三上郷)宮郷(社家郷)、そして主力として石山本願寺に味方する土橋氏の雑賀荘と鈴木氏の十ヶ郷だ。ところが土橋と鈴木がまた仲が悪い。
 そして根来衆は一向宗ではない。寺領50万石とも70万石とも言われる、根来寺を中心とした新義真言宗の僧徒らの集団である。雑賀と根来は活発に交流していたから、いわば親戚のようなもので、雑賀党の一部は一向宗ではなく真言宗の信者であったようだ。結局石山合戦で信長をキリキリ舞いさせるのは、鈴木孫市(別名、雑賀孫市)をリーダーとする雑賀党の一部に過ぎない。しかし彼らの活躍は目覚ましく、門跡の顕如は石山での戦さが激しくなると、孫市へ書状を送り援軍を依頼する。「さいか者十人二十人なりと、急ぎ送ってたもれ。」
 天下統一を目指す信長にとって最大の敵は一向宗で、何度も煮え湯を飲まされている。そして一向宗の顕如と、信長が最も恐れた敵、武田信玄の奥方は姉妹であった。阿弥陀如来の慈悲によって悪人であっても救われ、極楽往生をとげるという一向一揆の理念は、修行や功徳によって輪廻の世界からの解脱を目指す仏教(ブッダの教え)とは真逆な思想だ。いいとか悪いとかは関係ない。楽でいいじゃん、と思うが仏教では無いな。もっとも一向衆徒はカテゴリーが何とか気にしないだろうよ。これはどちらかと言えば、聖母マリアを慕うキリスト教徒に近い。例えていえばフィリピンやメキシコの信者、日本のキリシタンもマリア崇拝が強い。だが教会と世俗の権力支配に屈して農奴と化したヨーロッパ中世のキリスト教徒とは違い、一向衆徒は守護、大名を自力で追い出し国を自分達の合議制にした。百姓の持ちたる国の誕生だ。世界史を見ても珍しい。
 中央集権の統一国家を目指す信長に取って、こうなると一向宗は覇権と領土を争い、攻撃したり交渉したりする相手ではない。根絶やしにするしかない最も危険で決して和睦する事のない相手だ。石山合戦は思想闘争なのだ。
 天正4年(1576年)春、石山勢は1万を超える軍勢をもって木津の織田軍を蹴散らし天王寺砦を包囲した。織田の将、塙直政が戦死し明智光秀が包囲された砦から救援を要請した。信長は馬を駆って前線に行き、軍勢が整わず三千の幹部、武将ばかりが多い騎馬隊を群がる門徒勢1万5千に乗り入れた。ここが正念場だと知っているのだ。こういう果断な行動が信長の魅力だ。門徒勢に混じった雑賀鉄砲衆は、最大の敵信長が戦場に現れたのを見て、千載一遇のチャンスと色めき立つ。距離は遠いが、鍛えぬいた鉄砲衆の放つ銃弾は騎馬で移動する信長に集中し始めた。信長の廻りを囲む馬廻り衆が楯となって次々に撃ち抜かれて落馬する。そしてついに一弾、信長の太ももに食い込んだ。あと一弾。しかし運の強い信長は走り去って天王寺砦に入り、砦の内外呼応して門徒の包囲を撃退した。門徒は劣勢の守備軍が反撃してくるとは思わず、虚をつかれて崩れた。
 一向宗の門徒の大半は農民である。武士と農民の区別が後世ほど明確ではない時代だが、生活に追われ武芸の稽古などしてきた訳ではない。しかし彼らには強みがあった。死を恐れないのだ。門徒の旗印は『欣求浄土。厭離穢土。』(この世はクソだ。未練は無いぜ。サッサと死んで極楽往生。)このムシロ旗は、武田信玄の『風林火山』や上杉謙信の『毘』などより覚悟のほどが伺える。彼らは死を恐れない。門徒の指導者の坊主共が持つ旗にはこう書かれている。『進む者は極楽往生。退く者は無間地獄。』石山合戦で顕如が信長に勝っていたら、日本は一向宗の国になり一体どんな歴史になっていたのだろう。坊主の思い上がりと腐敗が少なければ、面白い共和国家が生まれていたかも。
 しかし現実には一向宗にも問題があった。指導者の坊主たちが贅沢をして腐敗したり、重税を課したりしたので一揆内一揆も起こっている。せっかく命がけで世俗の権力を倒したのに、本部から来た坊主が威張って税金を取り立てたら、何の為に蜂起したのか分からない。こんなことは現代の会社社会でもありそうだ。また毛利氏は国内に多数の門徒を抱え、石山方に味方をしているが毛利の治める国内では一揆は一度も起こらなかった。支配者の毛利と門徒が時に協力し、時に個別に石山方に兵糧を入れている。毛利の統治のうまさが光る。信長も見習うべきだ。

to be contined, 

少年と床屋の奥さん

2015年11月11日 18時22分38秒 | エッセイ
少年と床屋の奥さん

 12の頃だったか、いつも行く床屋が閉まっていたのか、初めての床屋に行った。床屋代は小遣いとは別に母親からその都度もらっていた。歯医者ほどいやではないが、子供にとって床屋は退屈で、待ち時間に新しいマンガが読めればラッキー、それ以外は何も良いことはない。ひげも生えていない少年でも、頭は洗うし顔は蒸してから剃るので時間がかかる。
 初めて入った床屋は小さくて椅子は二つだけ、窓ガラス越しに太陽の光が狭いスペースを汗ばむほどに温めていた。「いらっしゃい。」他に客はいない。白い上着を着けた女の人が、腰かけていた待ち合いの椅子から立ち上がった。
 12の少年に女の人の年は分からない。その時の印象を言葉にすれば、「女の人だ。」いつもの床屋は親父か若者で、女性に髪を切ってもらうのは初めてだ。さてこの温室のような部屋のゆったりした椅子にスッポリ収まり、床屋の会話が始まった。「長さはどの位?」「後ろは刈り上げる。」
 今日は何だか気持ちがいいな。女の人はゆっくりとした口調で会話を誘導する。「君はどこの子、何年生?」椅子を倒して温かいタオルを顔にかぶせると、うっとりとして眠たくなる。タオルを外して息がかかるくらいに体を寄せ、女の人が顔そりを始めた。会話は中断だ。んっ、ひじに女の人の体があたる。小さな接点に神経を集中させると、柔らかくて弾力があって温かい体を感じる。気しょくええー。あまりに気持ち良くて、もっと触れていたい。手を肘掛にそろそろとずらした。
 その姑息な動きを見破られたか(心臓がバクバクする。)、その後女の人の体の、腰から太ももの上の方の極く小さなポイントがそっと手に触れる。自然に会話を再開しながら、そっと触れふっと離れる。あーもっと触れていたい。しかしここで、「ハイ、お仕舞い。」散髪が終わってしまった。彼女はウブな少年をからかったんだろうか。
 支払いの時に80円不足した。いつもの床屋よりちょっと高かったんだ。「いいのよ、おまけ。」「でも取ってきます。」ところが、家に着いた俺はそのまま引き返さなかった。そして何故か二度とその床屋へは行かなかった。


奇人変人大好きーーウズラの卵

2015年11月04日 19時00分37秒 | エッセイ
奇人変人大好きーーウズラの卵

 昔から変わり者が好きだ。真っ当と云われる人間よりはるかに面白い。変人は常識に縛られていないから発言も行動も自由だ。何を言うのかするのかワクワクする。特に日本人は型にはまった大量生産のロボットみたいな奴が多い。息が詰まるぜ。だから海外に出ると楽しい。体全体に生命力が湧いてくる。常識なんて、国によって時代によってホイホイホイと変わるのに、そんなものにしがみつくのは阿呆だ。自分で牢獄に入っていくようなものだね。
 さて奇人、変人には色々なタイプがあって、全てにずれているのも楽しいが、何か一つの事に熱中して周りが目に入らないのも良い。実に良い。もう随分昔の話だが、日経の裏面に出ていた人物には笑った。そのおじさんの趣味(生きがい)は、ウズラの卵の丸い方の球体を写真に撮ることだ。一つとして同じ模様はなく(うんうん、そうだろうとも)、一つ一つアップで写真にすると、まるでどこぞの惑星のようだ。それを現像してオーとかヤッターとか言っているらしい。
 そのおじさんは近所のスーパーでは有名人で、来た来た、ウズラおじさん今日も来た、と皆がはしゃぐ。まあウズラの卵だからせいぜい10ヶ入り100円位だろうが、ウズラおじさんは5パックでも10パックでもあるだけ買い込むんだ。それを家に持ち帰って撮影用にセットして一つ一つカシャカシャ。ウズラおじさん至福の時間だ。おっ今日は傑作が撮れた。これはすごいな、とか趣味を同じくする同好の士がいるとは思えないから、一人でしゃべるんだろう。いいなー。家族の視線は冷たいだろうな。だけど撮影した後のウズラの卵百個、どうするんだろう。気になるな。茹でたウズラの玉子をカレーやシチュー、おでんにいれるのは好きだ。だけどせいぜい10個か15個、百目玉焼きにするんかな。割るの大変だろうな。それとも百玉子焼きにするのかな。どっちにしても家族の白い視線が容易に想像される。いいなーこんな人大好き。


うつろ舟の異人美女

2015年11月04日 18時56分59秒 | エッセイ
うつろ舟の異人美女

 時は享保3年(西暦1,803年)、所は常陸国、原舎り濱(現在の神栖市波崎舎利浜=鹿島沖)。滝沢馬琴の江戸の怪異を記した『兎園小説』に出てくる「うつろ舟の蛮女」が気にかかる。他にも瓦版とか約10件の史料が残っているが、惜しむらく公文書には記載が残っていない。
 浜に直径6mもある円盤状の、どんぶりを重ね合わせたような乗り物に乗って、異国の美女が漂着した。乗り物の上部はガラス張りで、底は鉄板を重ねて張った頑丈な造り。少々岩に当っても壊れない。乗り物を覗くと飲み物と食料らしき物が見える。乗り物に入っていたのは、眉と髪が赤く顔色は桃色、白く長い付け髪。不思議な異国の服装の女。
 「姿はじんぜう二して器量至てよろしく、日本二テも容顔美麗といふ方にて」。大変な美人だ。大きな木箱を大切そうに持っていて触れさせない。舟には解読不能な文字が記されている。この美女、浜人に微笑みかけ南の方を指さして話すが、全く分からない異国の言葉だ。浜の古老は言う。「前にもこのような事があったと聞いている。この女はたぶん異国の姫君だ。嫁いだが、以前から密かに付き合っていた男がいることが発覚し、男は打ち首になった。女は王女なので殺す訳にはいかない。そこで運を天に任せて沖から流したのだろう。その箱の中には間男の首が入っていると見た。」すごいな、このジジイ。
 浜人は延々と話しあうが、お役人に届けたらどんな賦役を被るか分からない。この少し後には異国船打払令 (文政8年=1,825年) が出ている。結局女を舟に戻して沖に流してしまった。せつない話なのだ。ただ一つの史料では、女を保護し食物を与えたがどうしても食べず、5日後に衰弱して死んでしまったので葬った、という。
 この話、昔から気にかかる。話の信ぴょう性については疑ってはいない。真実だと思う。馬琴は何かの一次史料を基にして『兎園小説』を書いている。馬琴の創作ではない。創作にしては異様にリアルで、異国的な要素が強すぎる。またうつろ舟の形状が奇抜過ぎる。UFO、宇宙人というのはくそくらえ。これを言ったら人間の創造性を全て潰すことになる。全滅だ。何でも宇宙人でハイ、オシマイ。
 異人女を見た時の浜人の反応は、化け物に会った時の物ではない。彼女の美しさを認めている。舟に戻して沖に流す、という非情な仕打ちは情けない。だが一抹の正しさを感じざるをえない。心情的には許せないが。新大陸とか言ってスペイン人が入り込んだカリブ海の島々の住民は、スペイン人が旧大陸から持ち込んだ天然痘とチフスによってほぼ死に絶えた。アステカ帝国でもインカ帝国でも大流行して、人口の半分は死んだ。北アメリカのネイティブインディアンも同じだ。時代は少々後になるが英米軍の対インディアン戦争では、天然痘患者の寝ていた毛布をインディアンに送りつけた。日本でも欧州との交易によって、天然痘(こちらは遣唐使のころ)、梅毒、コレラ等が流行し多くの死者を出している。異文化との交流には大きなリスクがある。
 それにしても君は誰?どこから来たの?写し取った文字の一つは、オランダ東印度会社のマークに似ている。ただしOVCではなく、OVOだ。オランダ人なのかな。オランダ船としたら、航路は外れるがこの時代に不自然ではない。彼女は総督の娘で船の中で伝染病に感染し、蔓延を防ぐために仕方なく流したのかもしれない。しかしそうだとしたらあのカプセルは用意が良すぎる。総督の妻で不貞に怒った総統が部下に命じて、わざわざ江戸の近くで流させた?妻の不貞くらいで新教徒のオランダ総督がそれほど怒るかな?マハラジャじゃああるまいに。うーん、君は誰?
 ともあれこの漂着譚にはとても心が引かれる。新しい資料が出てこないかな。