旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

T-34ショック

2016年04月11日 13時49分58秒 | エッセイ
T-34ショック

 1941年6月22日、ドイツ軍はソ連国境を突破し破竹の快進撃を始めた。バルバロッサ作戦の発動だ。スターリンは国境付近のドイツ軍の活動が活発になっているという報告を握りつぶし、相手を刺激しないよう自軍の活動を自粛する命令を下していたから堪らない。赤軍はドイツ軍に出会う度に粉砕され、ソ連のYakやLaGG、La-5といった戦闘機は、メッサーシュミットやフォッケウルフといったドイツ空軍の戦闘機によってバタバタと撃墜された。
 しかし進撃が進むにつれ、ドイツ軍に誤算が生じてきた。ウクライナ、ロシアの大地はとてつもなく広い。道路はどこも未舗装で雨が降るとグチャグチャの泥沼になって、車両も戦車も砲も泥にまみれ泥に埋まり故障して進まなくなった。またスターリンの焦土作戦が功を奏し、自国民は数百万人が死んだがドイツ軍も補給に苦しんだ。ソ連の鉄道は広軌でドイツの機関車は使えない。ソ軍の思い切った撤退に遇い、捕獲した機関車は少ない。鉄道を補給に使う為には、線路の張替が必要になった。
 ドイツ軍には大型4発の長距離爆撃機が無かったため、せっかく前線での制空権を取りながら、ウラル山脈に撤退したソ連の軍需工場を戦略爆撃出来ず、その生産を止めることは全く出来なかった。そして何より誤算だったのは、2年目頃から戦場に姿を現した敵戦車T-34(76.2mm砲,32トン,前面装甲90mm曲面)が、自軍の戦車より優れていた事だ。ドイツ軍は電撃戦で英仏陸軍を撃破した。ポーランドを占領した。その時の主力戦車は37mm砲15トンのⅢ号軽戦車と、75mm砲20トンのⅣ号戦車(装甲,砲塔前面50mm,駐退機前面80mm)だ。Ⅳ号戦車は連合軍のマチルダ重戦車などには苦戦したが、持ち前の機動力と戦術のうまさで勝利を重ねてきた。Ⅲ号戦車が太刀打ち出来ないのは織り込み済みだが、主力のⅣ号戦車の砲弾がT-34の傾斜装甲板に当たって跳ね上がってしまうのにはショックを受けた。
 T-34の斜め装甲は実に有効で砲弾の貫通力を上に逸らす。T-34が始めて採用した。砲塔部が狭くなるが、作戦などろくに無く指揮官が戦場を見て臨機応変に隊形を組むなど考えられないソビエト軍にとっては、痛くもかゆくもない。ドイツ軍の主力の35mm対戦車砲がT-34に全く歯がたたないのもショックだ。ドイツの傑作砲で高射砲にも対戦車砲にもなる88mm砲なら一撃だが、88mm砲は重くて大きく移動に適さない。ドイツ軍は愕然とした。劣等民族スラヴ人の作った戦車に手も足も出ないとは。
 それまでのソ軍の主力BT戦車は低性能だった。とはいえそのBT戦車とノモンハンで戦った日本軍戦車隊は全滅した。それでも日本兵は火焔瓶で対抗した。飲み終えたサイダー瓶にガソリンを詰め、栓に布を巻きつけ火をつけて投げる。BT戦車を引っ繰り返すからTB弾、それほど大したものではないからチビ弾と呼んだ。元々日本軍の野戦病院が奇襲されBT戦車が目前に迫った時、軍医が手にしたアルコール瓶を切羽詰まって投げたら戦車に火がついた。BT戦車は溶接に問題があって火がつきやすかった。隙間から内部に浸透したアルコールが気化して引火したのだ。
 T-34はキャタピラの幅が広いのでドイツ軍戦車が埋まってしまうような泥炭地でも動き廻る。ドイツ軍はⅣ号戦車の砲を75mm長砲身に付け替えたⅣ号G型を開発し、何とかT-34に対抗した。初期のT-34には製造の雑さがあり、砲弾が装甲に当たると跳ね返しても、内部のリベットが衝撃で破砕し乗員を傷つけることがあった。またソビエト軍の戦術が低劣なことにも救われた。ソ軍は隊長車にしか無線マイクがついてなく、横一線での攻撃くらいで複雑な機動戦などはとても出来ない。ドイツ軍は構造が単純でメンテナンスが容易なT-34の方が使い勝手が良かったようだ。戦場に放棄されたT-34を揃えて鍵十字を画いた部隊が生まれた。なおT-34の排気管にマフラーの類いはなく、振動と騒音はひどいそうだ。
 やがてT-34に対抗するため、ドイツでは傑作戦車Ⅴ号パンター(豹)が生まれる。パンターは76.2mm砲、45トンで正面装甲110mm。そして第二次大戦最強のティーガー(虎)が出現する。Ⅵ号戦車ティーガーは88mm砲搭載,57トン,前面装甲100mm。パンターに勝てないT-34は、対抗するために砲を85mmに換装したT34-85を開発した。しかしT34-85をもってしてもティーガーには敵わない。こちらの弾丸が弾き返され、ティーガーの弾丸が装甲を突き破る。ところがパンターもティーガーも精密な構造で、故障が多い上に生産性が上がらない。生産コストも高い。ティーガーが1輌出来あがる内に、T-34は20輌30輌と生産される。こうなるともう戦争には勝てない。史上最大の戦車戦となったクルスクの戦いでは、ティーガー1輌で1日に22輌のT-34を破壊した戦車長がいたが、T-34は後から後から湧いて出る。ドイツ軍には予備兵力がなかった。大戦中にアメリカのシャーマン戦車は5万輌、T-34は5万8千輌生産されたが、ティーガーはⅠ型Ⅱ型併せて1,830輌に過ぎない。
 ソビエトは連合軍から軍需物資の補給を受けていた。車両、航空機、戦車、砲、弾薬、食糧、金属、無線や装備品等々。特にジープや装甲車の供給を受けていたので、T-34の製造に専念できたのだ。ドイツは二正面で戦う上に、人口ではソ連の半分に過ぎない。やはりごく初期の段階で捕えた捕虜500万人を強制労働で全滅させずに、反ソビエト軍として使うべきだったのだ。ロシア人の中にはスターリンを殺すためなら命をかける連中が多数いたのだから。
 ソビエト時代の科学力、工業力は進んでいるのか遅れているのか良く分からない所がある。ソ連の主要乗用車はLadaという不細工で性能の悪いものだった。この車、安いだけが取り柄(2,000ccで30万円くらい)で、中南米やエジプト、フィリピン等でタクシーなどに使われていた。構造が単純で整備が簡単、頑丈だったんだろう。今では海外では死滅したことだろうな。安いだけなら、後に出てきた韓国車の方が見栄えも性能もよい。現代や大宇が自動車生産を始め、海外市場に打って出るとLadaは消えた。
ソ連が戦後宇宙開発でアメリカに先行した裏には、いち早く占領したベルリンからドイツ人科学者を計画的に探し出し、本国に連れ帰った作戦があった。核開発も同様だ。アメリカもドイツ人科学者を連れ帰ったが、ソ連の方が早かった。しかしT-34もAK47もMIG戦闘機もソビエト製だ。ドイツ人の助けは借りていない。朝鮮戦争やベトナム戦争で西側(主に米軍)のファントム戦闘機と互角に渡り合ったMIG戦闘機は、アルメニア人のミコヤンとユダヤ人のグレヴィッチの合作なのでMIGと呼ばれる。MIGの後継機、Su-27,Su-34、スホーイ戦闘機も優秀なようだ。実戦ではその真価を発揮していないが。
 朝鮮戦争では、北朝鮮のT34-85はアメリカのシャーマン(M4中戦車、シャーマンは愛称。30トン,75mm砲,後に76.2mm砲,前面装甲64-76mm)と互角に戦った。T-34の後継戦車はT-72だが、中東での戦い(イスラエルVSアラブ諸国、湾岸戦争、イラク戦争)で西側の戦車に較べて部が悪い。最近の湾岸戦争やイラク戦争においてイラク軍戦車部隊は、アメリカ軍のエイブラヒムに手も足も出なかった。イラク軍の共和国親衛隊の戦車部隊は、勇敢に立ち向かったが、ノモンハンで全滅した日本軍の戦車部隊のように一方的に叩き潰された。戦場で立ち上る煙は破壊され鉄の棺桶と化したT-72ばかりで、その数30以上。M1エイフラムスは味方撃ちの1輌のみであった。

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