旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

難民村の一日

2018年09月30日 18時53分48秒 | エッセイ
難民村の一日

 もうすぐ最初の検問だな。整備された国道を一路北上する6輪トラックの荷台は、風が体にあたって気持ちが良い。国道とはいえ、街を離れると民間の車はほとんど走っていない。すれ違うのは、上は戦車、下はタイヤの自走砲や軍人を乗せたジープだ。
 俺は荷台の上で背中をモゾモゾと動かし、少しでも心地よい態勢を整えた。そしてズボンのももの部分にあるポケットからタバコとジッポを取り出し火を点けた。この風では普通のライターでは駄目だ。胸一杯にタイのいがらっぽい煙を吸い込み、晴れた空に向かってゆっくりと吐き出した。今日も暑くなりそうだ。

 昨夜の砲撃は激しかった。地平線の彼方がビカビカ光り、遅れて砲声が届く。まるで花火だ。見ようによっては美しい。あの砲火の下にいたらどれほど恐ろしいことだろう。でも遠くから見ている分には実感が湧かない。稲妻とは音が違う。空には星が瞬いているし、光は一方向、地表近くだ。
 あの国道・国境の向こうで何が起きているのか、こちら側では分からない。断片的な情報は、難民の話しかない。アンコール・ワットはどうなっているのだろう。あの砲撃の目標になっていないことを願う。大規模な砲撃をクメールルージュに向けて加えているのはベトナム軍だから、遺跡の破壊のような無茶はしないと思うが。

 安全な国境のこちら側、アランヤプラテートにいる自分たちは、夜間の砲撃には何ら危険は感じない。怖いのはメコンウィスキーに酔っぱらった兵隊だ。宿舎の直ぐ裏で空に向かって(だと思うが)、ピストルを乱射することだ。パンパンパン---パン。突然響くこの乾いた音は恐い。こんな奴らと外で出会いたくはない。
 強盗や酔っ払いと違って害は無いが、突然出会ったらびっくりする奴が他にもいる。大ヤモリのトッケーだ。最初にその鳴き声を聞いた時にはぶったまげた。ククククッ---トッケー、トッケー~(8~9回続く)。床下からいきなりトッケーというこの動物は何なんだ。虫じゃあとてもこの音量は出せん。こっちの鳥は夜鳴くんか?
 声は床下(といっても高床式だから地上2.5m)から聞こえた。意外にもその正体は大ヤモリだった。しばらくして本人を見た。奴は夜行動する。大きいなー。普通のチビヤモリが15cmくらいなら、トッケーは尻尾まで入れると70cm(記憶は膨らみ過ぎ?)はある。丸々と太って、よく見ると焦げ茶色の地色に赤・紫・黄の点々が入っていて綺麗だ。
 でもそうか、チビヤモリも鳴くぞ。チチッチチッ。ヤモリと同じ両生類のカエルは鳴く。様々な声で。やっぱトッケーはトカゲ(爬虫類)ではないのね。
 都市伝説ならぬトッケー伝説はいくつもあって、ある時家に忍び込んだ泥棒と、その家に住みついでいるトッケーが鉢合わせし、何かが起きてトッケーが家を守る。何だったかな。実はトッケーは食うと美味いらしい。サンデーマーケットで丸焼きが売られていた。あれは多分トッケー。でも自動害虫駆除を食う奴はいない。あとトッケーが10回以上続けて鳴くと良いことがある。なかなか10回迄は鳴かないものだ。よく食事時にトッケーが鳴きだすと、ボランティア仲間皆で数えたものだ。6,7,8,9--- あー。たまに10回を超えると拍手喝采。
 チビヤモリは夜になると、昼間の置物のような静けさをかなぐり捨てて、裸電球の周囲を走り回って蚊や小バエを食いまくる。時には身を乗り出し過ぎて天井から落ちてくるから気が抜けない。食っている鍋や皿の上に落ちたらどうする。床に落ちたヤモリは何てことはないらしい。あっやっちゃった。ササっと退場。
 トッケーが落ちてきたらたまらんが、奴はそんな雑魚どもの狩場には現れない。一度トッケーが大きなゴキブリをくわえているのを見た。凄い迫力だ。ミニチュア恐竜だ。トッケーの獲物はゲジゲジだの蛾だのといった大物だ。南国の高床式の家は、風通しが良いが、虫なんぞも入り放題だからトッケーの存在は有難い。自分たちは2人づつ蚊帳に入って寝ていた。トッケーも遠くから見る分には楽しいのだが、夜中にトイレのドアを開けて鉢合わせしたら怖い。奴は天井にへばりつき、中に入ろうとする自分と50cmの至近距離で目と目が会う。向こうもびっくりしたのか、口をガっと開けて威嚇する。お互い5秒間固まってしまった。その後思い切りかがんでトイレに入ったが、しばらく心臓がバクバクした。

 ふふっ、トラックの荷台でとりとめなく回想していると検問に差し掛かった。って兵隊いないじゃん。おーい、バーを上げてくれ。すると「ヘーイ、ジープン。アリガト、サヨナラ、オハヨ。」 田んぼの中から2-3人の若者が上半身裸、腰巻をつけて現れた。ニコニコしている。近くの農家の娘(丸まっちいの)も一緒だ。おいおい、一応ここ前線だぜ。タニシか源五郎を昼飯用にとって遊んでいたのに違いない。
 一週間前に彼らが部隊交代でここに配属された時は、暑いのにヘルメットをかっちりつけてピリピリに緊張していた。やだな、こういう兵隊は。M16をがちっと構えて、標準を自分らの顔に合わせる。手を伸ばして許可証を受け取る。ワっと言ったらズドン、反射的に引き金を引きそうだ。でもその緊張は3日とは持たなかった。一週間たったらこれだもんね。で1ヶ月後、部隊が交代してまたM16。

 目指すバンサンゲーは、アランヤプラテートから国境沿いの国道を1時間ほど北上し、途中軍の前線司令部(タスク・フォースと名前は恰好いい)に毎日立ち寄り、検問所を2・3越える。そして小川の丸太橋を渡ってジャングルヘ。
 ねえこれって密入国?バンサンゲーはカンボジア領内、丸太が国境だ。毎日が密入国だ。かっけー。俺たちはバンサンゲーで井戸掘りをしている。でもここからがちょっと大変なんだ。丸太橋から村まで20分ほど、工具(置いておけないので毎日持参)と弁当を持って歩く。
 ほとんどの行程が沼になっていて、どこが道やら分からない。雨季に入って半年近くこの状態なのだろう。くるぶしからふくらはぎまで、水の中をジャブジャブと進む。沼は冷めた温泉のように生温かく、泥やら葉やら虫の死骸やらが溶け込んだ濃厚青汁スープだ。かすかな腐臭がする。所々底からブクブクと泡を吹きだしている。透明度はゼロ。濃緑色の粘っこいお湯だ。この中に対人地雷が流されてきていても分からない。
 行き帰りにジャブジャブ。俺たちは足がただれてきた。蚊や南京虫に喰われた小さな傷口から、温かい沼で細胞分裂を繰り返し数百万個に増殖したばい菌が、繰り返し侵入した。蛭もいて傷口を増やす。蛭は引っ張っがすと穴が大きくなるので、タバコの火を近づけて落とす。傷口が深く広くジクジクとただれて日に日に悲惨な状態になってきた。日本から持参した皮膚軟膏を塗っても全然効き目がない。足首からもも、尻の方までやられた。早く道が乾いてくれないと酷いことになる。
 後にカオイダン(タイ国内の大きな難民キャンプ)にいる日本の赤十字の先生に診てもらって薬をもらった。診断は香港フッド、水虫だ。なんか普通。せめて塹壕足と言って欲しかった、我々工兵としては。もらった薬がちっとも効かない。日本の薬は弱いのか。熱帯の病気の研究が進んでいないのか。村の子供達もよく木の切り株のような傷口をもっていた。傷口は固まって膨れ上がり奥の方がジクジクしている。
 この傷口は、治った後でも10年先まで傷跡が残った。僕らの仲間には女の子が1人いたのに。彼女は足の爛れを痛がり痒がっていた。

 バンサンゲー、バンは集落の意味だからサンゲー村と呼ぼう。密林とは言えない。疎林の中に枯草屋根の掘っ立て小屋群。空からでは、よほど集中して見ないと気付かないだろう。一見すると数軒の小さな集落に見えるが、なかなかどうして、奥に奥にと広がっている。相当な人数が暮らしている。数千人?1万人はいないだろう。

1979年の夏、僕らはみんな若かった。未来は無限に広がっていた。タイも今よりずっとずーっと貧しかった。そしてベトナム戦争は終わっても、インドシナに平和は来なかった。パテト・ラオがラオスに、クメール・ルージュがカンボジアに赤色政権をたてた。ベトナムでは旧南ベトナムから難民が次々に海に出て西側(方向は東側だが)を目指した。しかしアメリカは遠い。
 ぎゅうぎゅうの人と荷物を積んだボロ船は、難破したりタイの海賊(漁師やチンピラのアルバイト)に襲われたり、途中で食糧・燃料が尽きたりした。
 カンボジア、クメール・ルージュの指導者ポル・ポトは、自国民を150万人殺したあげく、あろうことかベトナムに侵攻した。しかし戦争のプロ、ベトナム軍に反撃されてたちまち国土の大半を失った。しかし山岳地帯に立てこもってからは、しぶとく抵抗した。

 「オンカー(党)に従え。我々はこれより過去を切り捨てる。泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。笑ってはいけない。笑うのは過去の生活を懐かしんでいるからだ。」ポル・ポト派が国内で行っていた大量虐殺の実態は、当時ほとんど知られていなかった。ベトナムが国土中で死臭がすると主張しても、侵略の言い訳だと見られた。
 国際社会はベトナムを一斉に非難したが、ある意味彼らはポル・ポトの恐怖政治からの解放者であった。ベトナム軍の駐留によって虐殺を逃れた地方の子供達は、若いベトナム兵になついた。カンボジアに入ったベトナム兵は、大半がホーチミン市(旧サイゴン)で招集された若者であった。北の正規兵はほとんど参加していない。
 追い詰められたポル・ポト派のゲリラ戦は凄まじかったようで、シェムリアップやプノンペンの郊外には、広大なベトナム軍の英雄墓地が広がる。同じ形をした立派な墓が、行軍でもしているように整然と立ち並ぶが、参拝者はまれだ。いずれは取り壊されて移転するだろう。歴史は対カンボジア戦争で戦死したベトナム兵を英雄とは認めない。

 サンゲー村は、シハヌーク(フランス語はHを発音しないからシアヌークでもOK)時代の首相ソン・サン氏に属する。村に来たソン・サン氏と会った。長身・メガネ・やせぎすの大学教授のような、おだやかな人だった。しかし傍らに立つサングラスの猪首・固太りの将軍?は、いかにも悪そうだった。ソン・サン派では内部抗争があったようだ。ソン・サン氏は僕らと握手をして、アリガトーと日本語で言ってくれたが、将軍は、いつ井戸は完成するんだと、僕らを工兵扱いした。
 好きな作家、近藤紘一氏(サイゴンから来た妻と娘、著者)が、ソン・サン氏と親しかったのを本で読んだ時には、サンゲー村で出会ったあの日を思い出した。カンボジアが独立して何年も経つうちに、ソン・サン氏の政党は消えて無くなった。理念も信念もある人だったが、支離滅裂なシアヌークのカリスマ性には勝てなかった。

シアヌーク:2012年、療養中の北京で心不全のため逝去。89歳。翌年世界各国の元首が参列する国      葬が執り行われた。
ソン・サン:2000年、何故かパリで心臓発作で亡くなった。89歳。シアヌーク国王の主催により、      プノンペンで葬儀が行われた。
ポル・ポト(サロット・サル):1997年、潜伏先のジャングルで2番目の妻と娘に看取られて死んだ。
     毒殺とも自殺とも。75歳と思われる。遺体は廃材とタイヤを積み上げて焼かれた。

 ちょと年表を整理してみよう。

1975.4/30 サイゴン陥落、ベトナム戦争終戦。クメール・ルージュのプノンペン進駐。
1978 成田空港開港。ベトナム軍カンボジア侵攻。
1979 アフガニスタンにソ連軍事介入。1月、ベトナム軍のプノンペン占領。
1983 東京ディズニーランド開園。
1986 チェルノブイリ原発事故。
1988~89 ソ連軍、アフガニスタン撤退。
1989.9月 ベトナム軍、カンボジア撤退。
1990.6月 ベルリンの壁崩壊。
1991.12月 ソビエト連邦解体。

 日本はどうか。年配の人には懐かしいだろう。総理大臣一覧 & 米大統領

1976 福田赴夫     ~1969 1/20 リンドン・ジョンソン(この前はケネディー)
1978 大平正芳     1974~1977 1/20 ジェラルド・R・フォード
1980 鈴木善幸     1977~1981 1/20 ジミー・カーター
1982 中曾根康弘    1981~1989 1/20 ロナルド・レーガン
             1989~   ジョージ・H・w・ブッシュ

 サンゲー村は、戦争でもなければ人が住むような土地ではない。近くにきれいな水がない。地味は貧しく、キャッサバすら豊かには実らない。国道の向こう、タイ側では水たまりがあれば、魚が湧くように増える。だが、サンゲー村の大きな溜池(アメリカのチームが掘った)で釣れる魚は、小指ほどしかない。ゴム草履をちぎって浮きにするんだよね。
 しかし国連やタイ政府に管理され、安全と食糧を保証される代わりに、移動と仕事の自由を奪われた難民キャンプとサンゲー村は違う。住民の生活は厳しい。昼間でも迫撃砲を遠くから撃ち込まれることがある。ベトナム軍ではなく、味方のはずのポル・ポト派?前線から血でぐっしょりしたハンモックに包んで兵士が運ばれてくる。点滴を打ったままで、兵士がそれを高く掲げて同行する。
 食糧は慢性的に足りていない。子供達は、栄養失調から髪の毛が赤茶け、不衛生で目の病気(ものもらい等)や皮膚病にかかっている。衣服もボロで、小さな女の子は上半身裸だ。でもみんな結構生き生きとしている。可哀そうとか悲惨とか、比較する対象を持たない子供たちには、何のことやら分からない。関係ないね。今日も面白いこと探そうぜ。

 
 村の広場のような一画に井戸掘りの作業場がある。サンゲー村の代表は、会う度にドキッとするような美人だ。小柄でこざっぱりしたサファリルックを身につけた彼女は、きれいな英語を話す。でもこの人、村長なのか。それとも村長は別にいて、彼女はスポークスウーマンなのか。
 彼女ら指導者たちは中国系だった。単なる華僑?それとも国民党の残党?一度台湾の若い奉仕団が沢山の物資を持ってサンゲー村に来た。その時の彼女たちの歓迎は半端ないものであった。まるで10年振りに肉親に巡り合ったような。
 僕らの作業場の周辺に、屋根だけの待機スペースが作られた。竹の柱に草の屋根。屋根があるだけで直射日光が遮られて快適だ。風が吹くと気持ちいい。で、この場所にはいつも人がたむろして作業を見ている。迷彩服の兵隊も必ずいて、中国制造のAK47を柱に掛け、時々工具を僕らに借りてバズーカ砲の修理をする。竹の手りゅう弾を作る。少年兵も年配の兵隊もいる。そして松葉杖をついた片足の青年。地雷だ。
 それからティンやトク。毎日現れる常連の少年たちだ。仲良くなって休み時間にキャッキャッ言って遊んだ。今思うとちょっと不思議。言葉は通じなかったはずだよな。このヤジ馬集団の中に女性は混ざっていない。彼女達は忙しい。畑仕事、洗濯、炊事(火の使用には制限があったと思う)子育て、etc。
 それからサンゲー村の奥には学校があり、小さな女の子たちがクメールダンスや機織りを学んでいる。先生もダンサーも医者も、目立つ人間は片端から殺された。メガネをしていたらインテリとして殺された。伝統の文化をこんなジャングルの中で必死になって守ろうとしていたんだ。
 物が無くても、こういった前向きな意欲、小さな希望があるので、サンゲー村はカオイダンのような大規模難民キャンプと違って、住民が笑顔で生き生きしていたんだ。食糧は国連や各国のボランティアが危険を冒して支給していた。曜日を指定して国連やボランティアのトラックが村の近くへやってくる。あの泥川のどこに車の通れる橋がかかっているんだろう。相当遠くを迂回してくるんだろうな。
 でも雨が降って道路が崩れると、トラックは村からかなり離れた所までしか来れない。遠くから米袋等を運ぶのは大変だ。だから少しでも村にトラックを近づけるために、お揃いのカーキ色のシャツを着た兵隊が力を合わせて道路構築をする。
 土を盛り上げ、その上を繰り返し行軍して踏み固める。雨のなか懸命の作業は続き、ついに見かけはちゃんとした道が出来る。しかしこの道は次の大雨までしかもたない。一晩で崩れて元のどろんこ沼に戻る。石材もコンクリートも使っていないのだから仕方がない。資材もないが、敵の目標となる道をわざと作らないのだとも言える。それでもトラックを500mでも村に近づけるのは大きな成果だ。住民はみな小柄だし、十分に食っていないので力が出ないからだ。

 国連の食糧支給の日は、こんなにいたのかと驚くほどの人々が入れ物を持って列を作る。全て女性だ。女であれば年齢は問わない。これは苦肉の策なんだろう。全員に渡す量はないので、半分にだけ渡すわけだ。何時間も受け取りに並ぶのは大変だが、指導者に一括して渡すのとは違って、確実に末端にまで届く。
 この列にティンやトクといった少年が女装して紛れ込む。あー、それで髪を長くしていたのか。からかって笑ったら、本気で怒ったので、それからはククク肩で笑って気づかない振りをした。
 一週間経ち、次の支給日の前日に道路造り。この作業をしている兵隊の一人に話しかけられた。中年の兵隊だ。グリーンのシャツ、迷彩色のズボンにカーキ色の帽子。皆同じ服装をしている。彼は休憩の時に、我々に英語で話しかけてきた。彼は内戦前、プノンペンで商売をしていて日本人や日本大使館の人々の知り合いがたくさんいたそうだ。空手道場に通っていたという。ゴージューリュー(剛柔流)シトーリュー(糸東流)と詳しい。
 本当に短い間の立ち話だった。休憩が終わり、彼らは作業を再開した。ちょっと目を離すと、後ろ姿ではもう彼を判別出来ない。その後二度と会うことはなかった。

サンゲー村の美人村長は、月に一回ほど僕らを昼食に招待してくれた。やっとの思いで収穫したであろう野菜をいただくのは心苦しいが、大きなタニシを炒めた皿が美味しかった。ただ一つだけ、茶色くてドロドロして得体のしれない皿があった。恐る恐るつまんでみると、何だ缶詰のカツオのフレークでやんの。
 彼女に頼まれてよく街で買い物をした。キニーネや抗生物質(アランヤプラテートの薬局で簡単に買える)を渡すのは、使い方を間違ったら危険ではないか、との仲間の指摘があったが、喉から手が出るほど必要としているのは間違いない。マッチ、ろうそく、電池、食品、生活必需品等は問題ない。とにかくサンゲー村では、与えられるものはあっても、欲しい物を手に入れるのが難しい。といっても手で持てる程度だから、たいした量ではない。支払いはタイ・バーツ。
 アランヤプラテートの宿舎の裏で、いつも昼寝をしている兄ちゃんたちはサンゲー村には来ないのかな。国道はタイ軍が管理しているからここまでは来ないか。密輸団は夜行動するから何をしているのか分からない。まあ来たとしても危険手当が入って高いだろうな。彼らはポル・ポト派と接触しているんだろう。タイで手に入る食糧・医薬品・工具・生活用品をトラックに積んで、地雷原を避け、支払いは阿片・ルビーやサファイヤ、金、クレール浮彫なんかだろう。北のポル・ポト派は木材の伐採もしているらしい。密輸は危険だが、相当儲かる商売だ。アランヤプラテートの街は、密輸と兵隊相手の商売で景気がよい。新車が飛ぶように売れ、道路は事故車で一杯だ。阿片はここらでは取れないが、タイのパトロールが村の入り口で買っているのを見た。
 買い物ではなく、写真の現像を頼まれたことも数回ある。何かお祝いごとがあったらしい。広場に飾り付けがされ、みんな楽しそうだ。一度だけ、本人が使うのだろう、口紅を一本リクエストされた時はドキドキしたよ。
 さて、その彼女が目をかけている少年がいた。彼はいわゆる天才少年だ。11-2歳で完璧な英語を話す。話しの内容がお坊さんのようだ。凄く頭が良いのが直ぐに分かる。少年はクメール系で、孤児なのだろう。彼女はこの少年をアメリカに送り出したがっていた。我々はボランティア組織のトップや、顔が利く国境チームのボスに相談したが、うまくいったのだろうか。自分は結果が出る前にサンゲー村を離れ、ラオス国境の自動車整備のチームに移動したので分からない。
 彼女は優秀なクメールの血を世に送り出したかったんだろう。少年にチャンスをあげたかったんだと思う。さて天才少年ではなく、美人村長の小姓のように雑用をこなす小僧がいた。中学1・2年位だ。この小僧が何とも世慣れた子で、いつも皮肉っぽい笑みを浮かべ、ともするとやり込められる。こいつ年上なんじゃないか、と思わせる。たいして英語がうまいわけじゃあないのだが。奥行の深い奴。
 陶淵明の『国破れて山河在り、城春にして草木深し----』このsituationに合うでしょ。思い出して手帳に書き、所々抜け字・脱字を空欄〇にして奴に見せたら、見事な達筆で詩を完成させた。ほー、同じ文化で育った部分があるんだ、我々には。

 イザベラ・バードの『日本奥地紀行』に出てくるガイドの伊藤青年。彼は成人だが、有能でこすっからしい。すぐに金をごまかすが憎めない。あれ?誰かに似ている。んー、あっサンゲー村の小姓の少年だった。
 
 最後に一つ。昼休みに美人村長が小屋を貸してくれたことがあった。2-3人でハンモックを吊って昼寝した。6畳ほどの小屋には見事なほど何もない。柱にハンモックの両端を結び付けて横になった。今の体重なら柱が倒壊したかも。細い竹を編んで作った小屋の壁は、風は自由に、光はこぼれ入って薄明るい。うとうとし始めたら、壁の隙間から緑色の蛇の頭が現れた。
 それが普通にスっと小屋に侵入し、しばらくして別の壁の隙間から出て行った。数十秒間のサイレントムービーだ。細くてきれいな、かなり長い蛇だった。もしかしてあれが猛毒のグリーンスネーク?昨日まで元気だった人が、朝起きてこない。こんなケースもあるのかな。

 さあ、これから仲間達のこと、井戸掘りの顛末、等々を書こうかと思ったが、もういいや。いつか書くことがあるかな。あれから40年、アランヤプラテートの街はどうなったかな。機会があれば、行ってみたいものだ。バスターミナルからあの宿舎まで辿り着けるだろうか。もう家は無いかな。
 バンサンゲーは跡形もないだろう。特殊な事情がなければ、水がなく地味が乏しく、病気の巣のような密林に住む必要はない。サンゲー村の少年たちはどうなったかな。天才少年は?美人村長は?あの中年兵は?おだやかな人生をおくれたことを願う。
 機会があれば、あの時撮った写真を渡してあげたい。ティンやトクが、子供の時の写真を持っているはずがないもんね。
 
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