その他(ほか)の十字軍
先日、少年十字軍の話を書いた。聖地エルサレムの奪還を目指し異教徒と戦うキリストの騎士、十字軍には西欧キリスト教徒の血をたぎらすロマンがあるらしい。実際の十字軍がどれほど愚劣で、ハタ迷惑で野蛮なものであったかは、ここでは繰り返さない。いや書いちゃうかも。
9.11の同時多発テロの直後、おつむの緩いブッシュ大統領はアル・カイーダ、タリバンとの戦いに入る際に、十字軍という言葉を使おうとし慌てて補佐官に止められた。
第1回十字軍は奇襲効果もあり、聖地奪還を果たした。その後の十字軍対イスラム軍の戦いとは、エルサレムとその周辺に駐留したキリスト教王国、十字軍国家とイスラムとの戦いである。遠征軍は第2回十字軍以降、ほとんど戦力になっていない。十字軍国家の中心はエルサレム王国だ。第1回十字軍がエルサレムを占領したのは1099年で、ムスリム勢力の英雄サラディンによって奪回されるのは1187年だから88年間はキリスト教徒の手の内にあった。最後に残ったパレスチナの十字軍国家はエジプトのアッコン港に追い詰められ、1291年ついに落とされ完全に滅亡した。
元々、十字軍は利害が対立する諸侯の連合軍で、現地に建てられた諸侯国もお互いに対立していた。また現地生まれの諸侯は周辺のムスリム勢力と融和し共存を目指したが、新来の十字軍や聖書者(クソ坊主共)は異教徒だ、殺せ、戦えと喚く。いつの時代でも議論は喚き散らす強硬論に傾く。悲しい哉、必ずそうなる。理性と良識は、野蛮と暴言に屈する。気様、臆したか!白けてしまうんだな。馬鹿につける薬はない。
しかしこれでは協定も約束もあったものではない。中心となるエルサレム王国も内情は同じだ。悪い事にエルサレム陥落間近の国王ボードゥアン4世は高潔な青年だが、らい病が進行して身動きがままならない。とても子供は望めない。後継者を巡って、新来十字軍を中心とする宮廷派と、現地諸侯を中心とする貴族派の抗争が激化した。余命いくばくもない16歳のボードゥアン4世は、危うく両派のバランスを取り1177年のモントジザールの戦いで自身が戦場に立ちサラディンを破る。その結果しばらくは平穏が続くが、派閥争いは一層激しくなった。1185年にボードゥアン4世が没し、ボードゥアン5世が跡を継いだが、病弱のため即位1年で早世した。
1186年対イスラム強硬派が権力を握り、休戦条約を犯してメッカへの巡礼者やキャラバンを襲撃して虐殺し、一部を捕虜に取った。1187年十字軍はヒッティーンの戦いでサラディンに大敗し、テンプル騎士団総長以下何人かの指導者が捕虜になった。サラディンは勝ちに乗じて多くの拠点を陥とし、エルサレムを包囲した。エルサレムは「神の助けがある。」として住民が武装して抵抗するが、あえなく降伏する。
サラディンは寛大な条件を示し、身代金を払うことで市民の退去を許した。さてイスラムの英雄、十字軍の宿敵サラディンとはいかなる人物か。サラーフッディーン、通称サラディンは現イラクのティクリート出身で、アルメニアのクルド族だ。父はセルジューク朝治下の代官で、サラディンの兄弟が誤ってキリスト教徒の官吏を殺したためティクリートを追放される。しかし父は以前ザンギー朝の創始者ザンギーを助けたことから被護を受け、領地を与えられた。ザンギーが部下のマムルーク(奴隷兵)に暗殺されると、サラディンはシリアに勢力を持つアレッポの君主ヌールッディーンに仕える。
ヌールッディーンの側近としてエジプト遠征に参加する。三度目の遠征でエジプトを下し、アイユーブ朝を創設した。主君であるヌールッディーンとの関係は悪化するが、決定的な衝突に至る前にヌールッディーンがダマスクスで病没。サラディンはヌールッディーンの後継争いに乗じてダマスクスに無血入場を果たし、エジプトに加えシリア南部を接収した。その後エルサレム奪還に来たリチャード1世などの第3回十字軍を退けて、エルサレムを守りきった。
十字軍が再三捕虜や住民の虐殺、隊商や巡礼などへの襲撃を行ったのに対し、サラディンは寛容で身代金を払えない捕虜まで放免した。病床にあるリチャード獅子心王に見舞いの品を贈る等、敵に対しても懐に深い人物であった。しかし度々休戦協定を破って隊商を襲った指揮官を捕えた際は、指揮官と配下の騎士団員を一人残らず処刑した。サラディンの姉妹が隊商の中にいたという。
またサラディンは指導者になると贅沢を止め、行軍の際に立ち寄った村に軍事費の一部を分け与えている。私財もそのように用いたので、遺産は自身の葬儀代にも足りなかった。彼は敵味方を問わずにその人格を愛され、現在まで英雄としてその名を残している。サラディンの墓(廟)はダマスカスに、世界最古のモスクといわれるウマイヤド・モスクに隣接して残されている。
*民衆十字軍
民衆十字軍、または農民十字軍、庶民十字軍、貧者十字軍は、第1回十字軍の一部として1096年に起こった西ヨーロッパの庶民たちによる大規模な聖地巡礼運動。初期の十字軍では、諸侯や騎士らによる軍事行動だけではなく巡礼者が多数付き従っていた。熱狂的な巡礼熱はやがて冷めてゆくが、1096年の4月~10月に起きた民衆十字軍の動きを見てみよう。
11世紀は中世の温暖期に差し掛かり、人口や農業生産が増大した。その過度期に於いて農民は干ばつや飢饉、疫病の蔓延に苦しんでいた。1095年には流星雨・オーロラ・月食・彗星といった天体現象が起きた。またライ麦などの麦角菌による中毒が広まった。「終末思想」はキリスト教では繰り返し現れる。『ヨハネの黙示録』はvisualに訴える実に奇抜な一文だが、救済を早期に実現しようとする運動を「千年王国運動」という。救済は千年王国と新エルサレムの降臨という2段階で訪れ、そのうち千年王国で復活が許されるのは殉教者だとヨハネは語る。
民衆十字軍はカリスマ性の高い説教師、アミアンの隠者ピエールの焚きつけによって始まった。ピエールはロバにまたがり質素な服を着て北フランスからフランドルまでの広範囲を精力的に説いて回った。民衆十字軍は実に4万人にまで膨れ上がった。農民が主体だが、中小の地主や下級聖職者、騎士も参加した。女性や子供も多かった。「文無し」の異名を持つ騎士ゴーティエも参加した。
フランス人軍勢を率いるピエールは、ケルンに集結してドイツ人の参加者を更に募った。しかし待ちきれない先遣隊は、ハンガリーを通って東ローマ帝国のコンスタンティノープルを目指した。食糧は農村で掠奪し、彼らは特に各地のユダヤ人共同体を執拗に襲った。ルートを逆戻りしてまでユダヤ人を襲撃した。何も遠いイスラム教徒と戦わなくても、直ぐそこに異教徒であるユダヤ人がいるじゃあないか。エルサレムに遠征するには金がいる。奴らは金貸しを営み裕福だ。殺せ、奪え、ユダヤ人はイエスを磔刑にした。しかしこれはおかしい。イエス自身がユダヤ人だ。中には借金をチャラにする為に、ドサクサまぎれにユダヤ人共同体を襲ったものもいる。
得体の知れない3万もの集団に入って来られた東ローマ帝国は、困り果てて彼らをボスポラス海峡の対岸に送った。先遣隊の内1万は途中ハンガリーの兵士によって殺されていた。掠奪・暴行を繰り返していたのだから仕方がない。小アジアに渡った民衆十字軍は、ギリシャ人やトルコ人の村を襲いつつ前進する。その内にドイツ人・イタリア人対フランス人の内紛を起こし、ピエールの主導権は失われた。
セルジューク朝の王は、農民十字軍を冷静に迎撃し壊滅させた。多くの兵士が殺され、子供や女性は奴隷にされ残りは散り散りになった。無一文のゴーティエも戦死した。3千人だけ古い城跡に立て籠もったが、東ローマ帝国は軍を派遣してこれを救済、コンスタンティノープルに連れ戻した。隠者ピエールと合流した残党の3千人は、後に第1回十字軍に合流する。
ピエールは何年もエルサレムに残ったようで、時々資料にその名が現れる。十字軍内の非武装の庶民、けが人、破産した騎士らの間で人気があったようだ。その最期は確かではない。フランスに戻り聖墳墓教会を建てたとも、ベルギーで修道院を設立してそこで亡くなったともいう。
*北方十字軍
カトリックの王であるデンマーク、スウェーデン、ポーランドそしてリヴォニア帯剣騎士団、ドイツ騎士団によって開始された十字軍のこと。北ヨーロッパおよびバルト海沿岸南東の異教徒(非キリスト教徒)に対して行われた遠征。スウェーデンとドイツによるフィンランド南部、ラップランド等への遠征も含む。
エストニア。ラトビア、リヴォニアが1193~1227年にかけて征服された。リトアニアは13~14世紀に至るも抵抗を続けた。名目は十字軍だが、陸上・海上貿易のルートを握り経済的優位を確立するための軍事作戦であった。最初の遠征は第2回十字軍と並行して、1100年半ばに着手され16世紀まで不定期に継続されている。
* ノルウェー十字軍
この十字軍は楽しい。ノルウェー王シグルズ1世が率いた第1回十字軍の後の1107~1110年にかけての十字軍。シグルズは60隻の船に5千人の兵士を乗せ、1107年秋ノルウェーを船出した。冬の間はイングランドに留まり、1108年の春西方へ向け出航する。数か月の後、ガリシア王国に到着し2度目の冬を迎える。
食糧の売却を拒んだ領主の城を攻撃して略奪、その後ガレー船の大海賊船団と遭遇するが、海賊を粉砕して海賊船8隻を分捕る。もうまるきりバイキング、どちらが海賊か分からない。その後今日のポルトガルにあるムスリムの城を襲撃、改宗を拒む全ての人々を殺した。次にいくつかのムスリムの町を攻め、繰り返し戦闘に勝ち財宝を奪った。
ジブラルタル海峡を通過する時、再び海賊と戦って勝ち地中海にあるサラセン人の領土バレアス諸島の3つの島を攻め落とす。シグルズの戦略は臨機応変、この時も最も防御の厚い本島は攻めない。バレアス諸島では莫大な財宝を手にした。1109年春、シチリア島に到着して歓待を受けた。そしてついにエルサレムを訪れ、ボードゥアン1世から暖かく迎え入れられた。数多くの宝物や聖遺物を与えられ、対イスラムの戦いに参加する。
その後キプロス、次いでコンスタンティノープルへ行く。部下の多くは傭兵としてビザンチン帝国に残った。シグルズはその後3年程かけてブルガリア、ハンガリー、バヴァリア等を旅し、神聖ローマ帝国皇帝やデンマーク王と会いノルウェーに凱旋した。
* アルビジョア十字軍
1209年、南フランスで盛んだった異端アルビ派(カタリ派)を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。宗教的理由にかこつけて領土欲に駆られる北フランスの諸侯を中心に結成された。南フランス諸侯の反撃により領土戦争の色合いが強まり、最終的にフランス王ルイ8世が主導して北による南仏の制圧に至った。
コンスタンティノープルを占領した第4回十字軍と並んで、最も愚劣な十字軍である。この一連の十字軍(軍事侵攻)の結果、カタリ派は根絶やしにされた為、カタリ派がどのような思想を持っていたのかは定かではない。残っているのは悪意と偏見に満ちた言葉ばかりだ。元々カタリ派(アルビの町で盛んだったのでアルビ派ともいう)は、カトリック教会の聖職者の堕落に反対する民衆運動として生まれた。教皇が異端として憎む理由がここにある。
カタリ派は二元論的世界観に代表されるグノーシス主義的色彩が強く、マニ教の影響も受けているらしい。極めて禁欲的で菜食主義、殺生を禁じ断食を行った。また一切の誓いを禁止した。カタリ派では女性の地位が高かった。婚姻を認めない代わりに、性行為に於けるタブーも無かった。カトリック教会は当初、繰り返し説教師を派遣してカトリック教会への復帰を促したが、全く効果はなかった。
カタリ派は南仏では周辺のカトリック教徒からの人気が高く、北仏とは異なる文化で差別意識がなくギリシャ人、フェニキア人、ユダヤ人、イスラム教徒が仲良く暮らしていたが、アルビショア十字軍の後は荒廃し北仏の支配を受けた。改宗を拒んだカタリ派信者は、ことごとく火あぶりにされた。十字軍が町を攻める際、どうやってカトリックとカタリ派を見分けるかと云うと、「全部殺してしまえ。見分けるのは神だから!」
* 羊飼い十字軍
13世紀半ばに、ヤコブという修道士が「聖母マリアの手紙を手渡された」と唱えた。その手紙には、聖地解放のためには堕落した騎士ではなく羊飼いを呼び集めなければならないと記されていたという。ヤコブが演説を始めると、数日のうちに数千人の民衆が集まった。特に牧童達は飼育していた羊や豚を放り出して集合した。
これに泥棒や売春婦といった無頼の徒が加わり、各地で聖職者を攻撃して掠奪を始めた。この羊飼いの十字軍は教会と対立してアミアン、ウーアン、パリを経てブリュージュに至ったが、無法者として市民たちによってヤコブが惨殺され牧童の多くは絞首台の露と消えた。
・ まずイスラム世界は宗教に寛容で、イスラム教を強制していない。税金(人頭税と地租)を払えば信仰と財産を保証し自治権も与えた。特にキリスト教とユダヤ教は「啓典の民」として優遇された。
・ 元々十字軍を提案したのは、東ローマ(ビザンチン)帝国であった。東方からのイスラム勢力(セルジューク・トルコ)の脅威に対抗する為であった。餌は東西教会の統一である。東方の情勢に疎いローマ教皇ウルパヌス2世は、援軍要請をまともに受け取った。東方のキリスト教に対する優位を確立する魅力は大きかった。
・ 第1回十字軍はエルサレムを占領すると、神の名の元にイスラム兵士はもちろん、老若男女を無差別に殺戮した。フランク王国の年代記者はいう。「我らが同志たちは、大人の異教徒を鍋に入れて煮たうえで、子どもたちを串焼きにしてむさぼりくった。」
・ アラブの先代記者は次のように記した。「フランク王国に通じている者ならだれでも、彼らをけだものとみなす。ヨーロッパの人間たちは、勇気と戦う熱意には優れているが、それ以外には何もない。動物が力と攻撃性で優れているのと同様である。」
・ 第1回十字軍に従軍したフランスの聖職者はいう。「聖地エルサレムの大通りや広場には、アラブ人の頭や腕や足が高く積み上げれれていた。まさに血の海だ。しかし当然の報いだ。長い間冒涜をほしいままにしていたアラブ人の人間たちが汚したこの聖地を、彼らの血で染めることを許したもう〝神の裁き〟は正しく、賞賛すべきである。」
・ 野蛮人である中世ヨーロッパ人は、文明の進んだイスラムの国に接して多くを学んだ。医療・文化・食事・衛生全てに遅れていた西欧は、イスラムを通して古代ギリシャ、ローマの文化を再発見する。それがルネサンスに繋がる。十字軍の兵士はテントを知らずに野原に寝ていたが、イスラムの兵士は天幕を使っていた。
先日、少年十字軍の話を書いた。聖地エルサレムの奪還を目指し異教徒と戦うキリストの騎士、十字軍には西欧キリスト教徒の血をたぎらすロマンがあるらしい。実際の十字軍がどれほど愚劣で、ハタ迷惑で野蛮なものであったかは、ここでは繰り返さない。いや書いちゃうかも。
9.11の同時多発テロの直後、おつむの緩いブッシュ大統領はアル・カイーダ、タリバンとの戦いに入る際に、十字軍という言葉を使おうとし慌てて補佐官に止められた。
第1回十字軍は奇襲効果もあり、聖地奪還を果たした。その後の十字軍対イスラム軍の戦いとは、エルサレムとその周辺に駐留したキリスト教王国、十字軍国家とイスラムとの戦いである。遠征軍は第2回十字軍以降、ほとんど戦力になっていない。十字軍国家の中心はエルサレム王国だ。第1回十字軍がエルサレムを占領したのは1099年で、ムスリム勢力の英雄サラディンによって奪回されるのは1187年だから88年間はキリスト教徒の手の内にあった。最後に残ったパレスチナの十字軍国家はエジプトのアッコン港に追い詰められ、1291年ついに落とされ完全に滅亡した。
元々、十字軍は利害が対立する諸侯の連合軍で、現地に建てられた諸侯国もお互いに対立していた。また現地生まれの諸侯は周辺のムスリム勢力と融和し共存を目指したが、新来の十字軍や聖書者(クソ坊主共)は異教徒だ、殺せ、戦えと喚く。いつの時代でも議論は喚き散らす強硬論に傾く。悲しい哉、必ずそうなる。理性と良識は、野蛮と暴言に屈する。気様、臆したか!白けてしまうんだな。馬鹿につける薬はない。
しかしこれでは協定も約束もあったものではない。中心となるエルサレム王国も内情は同じだ。悪い事にエルサレム陥落間近の国王ボードゥアン4世は高潔な青年だが、らい病が進行して身動きがままならない。とても子供は望めない。後継者を巡って、新来十字軍を中心とする宮廷派と、現地諸侯を中心とする貴族派の抗争が激化した。余命いくばくもない16歳のボードゥアン4世は、危うく両派のバランスを取り1177年のモントジザールの戦いで自身が戦場に立ちサラディンを破る。その結果しばらくは平穏が続くが、派閥争いは一層激しくなった。1185年にボードゥアン4世が没し、ボードゥアン5世が跡を継いだが、病弱のため即位1年で早世した。
1186年対イスラム強硬派が権力を握り、休戦条約を犯してメッカへの巡礼者やキャラバンを襲撃して虐殺し、一部を捕虜に取った。1187年十字軍はヒッティーンの戦いでサラディンに大敗し、テンプル騎士団総長以下何人かの指導者が捕虜になった。サラディンは勝ちに乗じて多くの拠点を陥とし、エルサレムを包囲した。エルサレムは「神の助けがある。」として住民が武装して抵抗するが、あえなく降伏する。
サラディンは寛大な条件を示し、身代金を払うことで市民の退去を許した。さてイスラムの英雄、十字軍の宿敵サラディンとはいかなる人物か。サラーフッディーン、通称サラディンは現イラクのティクリート出身で、アルメニアのクルド族だ。父はセルジューク朝治下の代官で、サラディンの兄弟が誤ってキリスト教徒の官吏を殺したためティクリートを追放される。しかし父は以前ザンギー朝の創始者ザンギーを助けたことから被護を受け、領地を与えられた。ザンギーが部下のマムルーク(奴隷兵)に暗殺されると、サラディンはシリアに勢力を持つアレッポの君主ヌールッディーンに仕える。
ヌールッディーンの側近としてエジプト遠征に参加する。三度目の遠征でエジプトを下し、アイユーブ朝を創設した。主君であるヌールッディーンとの関係は悪化するが、決定的な衝突に至る前にヌールッディーンがダマスクスで病没。サラディンはヌールッディーンの後継争いに乗じてダマスクスに無血入場を果たし、エジプトに加えシリア南部を接収した。その後エルサレム奪還に来たリチャード1世などの第3回十字軍を退けて、エルサレムを守りきった。
十字軍が再三捕虜や住民の虐殺、隊商や巡礼などへの襲撃を行ったのに対し、サラディンは寛容で身代金を払えない捕虜まで放免した。病床にあるリチャード獅子心王に見舞いの品を贈る等、敵に対しても懐に深い人物であった。しかし度々休戦協定を破って隊商を襲った指揮官を捕えた際は、指揮官と配下の騎士団員を一人残らず処刑した。サラディンの姉妹が隊商の中にいたという。
またサラディンは指導者になると贅沢を止め、行軍の際に立ち寄った村に軍事費の一部を分け与えている。私財もそのように用いたので、遺産は自身の葬儀代にも足りなかった。彼は敵味方を問わずにその人格を愛され、現在まで英雄としてその名を残している。サラディンの墓(廟)はダマスカスに、世界最古のモスクといわれるウマイヤド・モスクに隣接して残されている。
*民衆十字軍
民衆十字軍、または農民十字軍、庶民十字軍、貧者十字軍は、第1回十字軍の一部として1096年に起こった西ヨーロッパの庶民たちによる大規模な聖地巡礼運動。初期の十字軍では、諸侯や騎士らによる軍事行動だけではなく巡礼者が多数付き従っていた。熱狂的な巡礼熱はやがて冷めてゆくが、1096年の4月~10月に起きた民衆十字軍の動きを見てみよう。
11世紀は中世の温暖期に差し掛かり、人口や農業生産が増大した。その過度期に於いて農民は干ばつや飢饉、疫病の蔓延に苦しんでいた。1095年には流星雨・オーロラ・月食・彗星といった天体現象が起きた。またライ麦などの麦角菌による中毒が広まった。「終末思想」はキリスト教では繰り返し現れる。『ヨハネの黙示録』はvisualに訴える実に奇抜な一文だが、救済を早期に実現しようとする運動を「千年王国運動」という。救済は千年王国と新エルサレムの降臨という2段階で訪れ、そのうち千年王国で復活が許されるのは殉教者だとヨハネは語る。
民衆十字軍はカリスマ性の高い説教師、アミアンの隠者ピエールの焚きつけによって始まった。ピエールはロバにまたがり質素な服を着て北フランスからフランドルまでの広範囲を精力的に説いて回った。民衆十字軍は実に4万人にまで膨れ上がった。農民が主体だが、中小の地主や下級聖職者、騎士も参加した。女性や子供も多かった。「文無し」の異名を持つ騎士ゴーティエも参加した。
フランス人軍勢を率いるピエールは、ケルンに集結してドイツ人の参加者を更に募った。しかし待ちきれない先遣隊は、ハンガリーを通って東ローマ帝国のコンスタンティノープルを目指した。食糧は農村で掠奪し、彼らは特に各地のユダヤ人共同体を執拗に襲った。ルートを逆戻りしてまでユダヤ人を襲撃した。何も遠いイスラム教徒と戦わなくても、直ぐそこに異教徒であるユダヤ人がいるじゃあないか。エルサレムに遠征するには金がいる。奴らは金貸しを営み裕福だ。殺せ、奪え、ユダヤ人はイエスを磔刑にした。しかしこれはおかしい。イエス自身がユダヤ人だ。中には借金をチャラにする為に、ドサクサまぎれにユダヤ人共同体を襲ったものもいる。
得体の知れない3万もの集団に入って来られた東ローマ帝国は、困り果てて彼らをボスポラス海峡の対岸に送った。先遣隊の内1万は途中ハンガリーの兵士によって殺されていた。掠奪・暴行を繰り返していたのだから仕方がない。小アジアに渡った民衆十字軍は、ギリシャ人やトルコ人の村を襲いつつ前進する。その内にドイツ人・イタリア人対フランス人の内紛を起こし、ピエールの主導権は失われた。
セルジューク朝の王は、農民十字軍を冷静に迎撃し壊滅させた。多くの兵士が殺され、子供や女性は奴隷にされ残りは散り散りになった。無一文のゴーティエも戦死した。3千人だけ古い城跡に立て籠もったが、東ローマ帝国は軍を派遣してこれを救済、コンスタンティノープルに連れ戻した。隠者ピエールと合流した残党の3千人は、後に第1回十字軍に合流する。
ピエールは何年もエルサレムに残ったようで、時々資料にその名が現れる。十字軍内の非武装の庶民、けが人、破産した騎士らの間で人気があったようだ。その最期は確かではない。フランスに戻り聖墳墓教会を建てたとも、ベルギーで修道院を設立してそこで亡くなったともいう。
*北方十字軍
カトリックの王であるデンマーク、スウェーデン、ポーランドそしてリヴォニア帯剣騎士団、ドイツ騎士団によって開始された十字軍のこと。北ヨーロッパおよびバルト海沿岸南東の異教徒(非キリスト教徒)に対して行われた遠征。スウェーデンとドイツによるフィンランド南部、ラップランド等への遠征も含む。
エストニア。ラトビア、リヴォニアが1193~1227年にかけて征服された。リトアニアは13~14世紀に至るも抵抗を続けた。名目は十字軍だが、陸上・海上貿易のルートを握り経済的優位を確立するための軍事作戦であった。最初の遠征は第2回十字軍と並行して、1100年半ばに着手され16世紀まで不定期に継続されている。
* ノルウェー十字軍
この十字軍は楽しい。ノルウェー王シグルズ1世が率いた第1回十字軍の後の1107~1110年にかけての十字軍。シグルズは60隻の船に5千人の兵士を乗せ、1107年秋ノルウェーを船出した。冬の間はイングランドに留まり、1108年の春西方へ向け出航する。数か月の後、ガリシア王国に到着し2度目の冬を迎える。
食糧の売却を拒んだ領主の城を攻撃して略奪、その後ガレー船の大海賊船団と遭遇するが、海賊を粉砕して海賊船8隻を分捕る。もうまるきりバイキング、どちらが海賊か分からない。その後今日のポルトガルにあるムスリムの城を襲撃、改宗を拒む全ての人々を殺した。次にいくつかのムスリムの町を攻め、繰り返し戦闘に勝ち財宝を奪った。
ジブラルタル海峡を通過する時、再び海賊と戦って勝ち地中海にあるサラセン人の領土バレアス諸島の3つの島を攻め落とす。シグルズの戦略は臨機応変、この時も最も防御の厚い本島は攻めない。バレアス諸島では莫大な財宝を手にした。1109年春、シチリア島に到着して歓待を受けた。そしてついにエルサレムを訪れ、ボードゥアン1世から暖かく迎え入れられた。数多くの宝物や聖遺物を与えられ、対イスラムの戦いに参加する。
その後キプロス、次いでコンスタンティノープルへ行く。部下の多くは傭兵としてビザンチン帝国に残った。シグルズはその後3年程かけてブルガリア、ハンガリー、バヴァリア等を旅し、神聖ローマ帝国皇帝やデンマーク王と会いノルウェーに凱旋した。
* アルビジョア十字軍
1209年、南フランスで盛んだった異端アルビ派(カタリ派)を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。宗教的理由にかこつけて領土欲に駆られる北フランスの諸侯を中心に結成された。南フランス諸侯の反撃により領土戦争の色合いが強まり、最終的にフランス王ルイ8世が主導して北による南仏の制圧に至った。
コンスタンティノープルを占領した第4回十字軍と並んで、最も愚劣な十字軍である。この一連の十字軍(軍事侵攻)の結果、カタリ派は根絶やしにされた為、カタリ派がどのような思想を持っていたのかは定かではない。残っているのは悪意と偏見に満ちた言葉ばかりだ。元々カタリ派(アルビの町で盛んだったのでアルビ派ともいう)は、カトリック教会の聖職者の堕落に反対する民衆運動として生まれた。教皇が異端として憎む理由がここにある。
カタリ派は二元論的世界観に代表されるグノーシス主義的色彩が強く、マニ教の影響も受けているらしい。極めて禁欲的で菜食主義、殺生を禁じ断食を行った。また一切の誓いを禁止した。カタリ派では女性の地位が高かった。婚姻を認めない代わりに、性行為に於けるタブーも無かった。カトリック教会は当初、繰り返し説教師を派遣してカトリック教会への復帰を促したが、全く効果はなかった。
カタリ派は南仏では周辺のカトリック教徒からの人気が高く、北仏とは異なる文化で差別意識がなくギリシャ人、フェニキア人、ユダヤ人、イスラム教徒が仲良く暮らしていたが、アルビショア十字軍の後は荒廃し北仏の支配を受けた。改宗を拒んだカタリ派信者は、ことごとく火あぶりにされた。十字軍が町を攻める際、どうやってカトリックとカタリ派を見分けるかと云うと、「全部殺してしまえ。見分けるのは神だから!」
* 羊飼い十字軍
13世紀半ばに、ヤコブという修道士が「聖母マリアの手紙を手渡された」と唱えた。その手紙には、聖地解放のためには堕落した騎士ではなく羊飼いを呼び集めなければならないと記されていたという。ヤコブが演説を始めると、数日のうちに数千人の民衆が集まった。特に牧童達は飼育していた羊や豚を放り出して集合した。
これに泥棒や売春婦といった無頼の徒が加わり、各地で聖職者を攻撃して掠奪を始めた。この羊飼いの十字軍は教会と対立してアミアン、ウーアン、パリを経てブリュージュに至ったが、無法者として市民たちによってヤコブが惨殺され牧童の多くは絞首台の露と消えた。
・ まずイスラム世界は宗教に寛容で、イスラム教を強制していない。税金(人頭税と地租)を払えば信仰と財産を保証し自治権も与えた。特にキリスト教とユダヤ教は「啓典の民」として優遇された。
・ 元々十字軍を提案したのは、東ローマ(ビザンチン)帝国であった。東方からのイスラム勢力(セルジューク・トルコ)の脅威に対抗する為であった。餌は東西教会の統一である。東方の情勢に疎いローマ教皇ウルパヌス2世は、援軍要請をまともに受け取った。東方のキリスト教に対する優位を確立する魅力は大きかった。
・ 第1回十字軍はエルサレムを占領すると、神の名の元にイスラム兵士はもちろん、老若男女を無差別に殺戮した。フランク王国の年代記者はいう。「我らが同志たちは、大人の異教徒を鍋に入れて煮たうえで、子どもたちを串焼きにしてむさぼりくった。」
・ アラブの先代記者は次のように記した。「フランク王国に通じている者ならだれでも、彼らをけだものとみなす。ヨーロッパの人間たちは、勇気と戦う熱意には優れているが、それ以外には何もない。動物が力と攻撃性で優れているのと同様である。」
・ 第1回十字軍に従軍したフランスの聖職者はいう。「聖地エルサレムの大通りや広場には、アラブ人の頭や腕や足が高く積み上げれれていた。まさに血の海だ。しかし当然の報いだ。長い間冒涜をほしいままにしていたアラブ人の人間たちが汚したこの聖地を、彼らの血で染めることを許したもう〝神の裁き〟は正しく、賞賛すべきである。」
・ 野蛮人である中世ヨーロッパ人は、文明の進んだイスラムの国に接して多くを学んだ。医療・文化・食事・衛生全てに遅れていた西欧は、イスラムを通して古代ギリシャ、ローマの文化を再発見する。それがルネサンスに繋がる。十字軍の兵士はテントを知らずに野原に寝ていたが、イスラムの兵士は天幕を使っていた。