旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

一瞬の光景

2015年10月26日 18時42分25秒 | エッセイ
一瞬の光景

 車の中から、バスの中から一瞬垣間見た光景が目に焼きつくことがある。飛行機では駄目だ。一度東北地方の花火大会を上空から見たことがある。ピンポン玉までいかない。直径2cm位の花火が音も無く点滅していたが、ああ花火って上から見ても丸いんだ。ただそれだけだ。電車の窓からも、広大な景色を見るには良いが、どうしても生活のスペースからは距離がある。町の中を縫うように走る、神奈川県の江ノ電のような電車は別だ。あれは楽しい。電車の旅では、特に長距離では車内や駅での人間観察が面白い。
 写真家の藤原信也が書いていたが、彼が中国で列車だったかバスだったかに乗っていて、一瞬垣間見た光景が目に焼きついたそうだ。もし桃源郷がこの世にあるのなら、今ちらっと見えた景色がそれなんじゃないか。こじんまりした池の高い土手に座って釣り竿を立てる老人、老人の傍らに立って池を見る幼童、彼らの背後には春霞にぼやけて見える田園風景が広がり、遠くの山が霞んで見える。写真家の目で見て、のどかとか平和の究極の姿に見えたんだろう。こういった最高の一瞬を目にするのは不幸なことで、その後他のどんな景色を見ても色あせて見える、と言っていたような気がする。
 魂を掴まれるワン・ショットと言えば、高校生位の年に車で墓参りに行き(その頃は家族で出かけるのをほとんどパスしていたから、法事だったのかな。)、車が徐行する際にガードレールの脇に立っていた喪服の女性が五秒間ほど目に入った。その彼女の美しかったこと。瞬間で恋に落ちた。三十歳位の長い黒髪の女性は、ほとんど後ろ向きで車が動くにつれて、ゆっくりとこちらを振り返ったが、完全に正面に向く前に車は通り過ぎた。細身の黒いワンピースの胸がツンツンと出ていた。なんてきれいな人なんだ。数日うなされるほど、その美しさに取りつかれたが、もちろんそれっきりの話しだ。
 あとひとつ、若い頃よく長距離バスに乗った。タイで乗った夜行バスはチェンマイ行きだったかチェンライだったか。途中でよくエンコした。海外のバス旅行では故障はつきものだ。真夜中バスの乗客が寝静まっているのをたたき起こされ、別のバスに乗り換えた。寝ぼけているから、前の座席の背についている網袋に入れた読みかけの文庫本を取り忘れた。しかし俺なんざまだマシ。網棚の上には乗客の荷物が一杯残っている。皆んな寝起きで頭が働いていないんだな。あれはバス会社が忘れ物を手に入れるために仕組んだんじゃないか。乗り込んだ新しいバスは直ぐに出発した。あの当時、10時間位は平気で乗った。インドでは丸一日乗っていたこともある。
 山道を走るバスの窓から濃い闇に包まれた沿道の景色をボーっとして見ていると、斜面に点在する住まいが見えてきた。その住居の前で火を盛んに燃やしていた。火の向こうに人影が見える。その焚火を見たら心が揺さぶられた。何でだろ。闇の中から一瞬だけ現れた火は、強烈に赤くて鮮やかだった。ここに人がいるよ、生活があるよと教えていた。バスは一瞬で通り過ぎたが、目に入った火は心を温めてくれた。