旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

英語力

2015年05月06日 10時58分19秒 | エッセイ
英語力

 英語がずっとコンプレックスだった。20歳になり初めて印度を旅した時、25歳で貿易会社に入った時、30代を過ごした外資系の会社では、英語がうまくないという理由で、前半は仕入れの仕事ばかり。後半は営業に回って全40ヶ国行った内の過半は30代後半に仕事で廻った。結果として仕入れから入った事は営業に役立った。仕入れ先のメーカーさんとのつき合いを通して製品の質・値段・部品のコスト・製造の現状を知ることが出来、それは物を売るのにとても必要な事だった。
 海外を廻るようになったからといって、英語が飛躍的にうまくなった訳ではない。ようは慣れてきた、に過ぎない。時間はあったのだから、どこかでちゃんと勉強すれば良かった。何度かやりかけたのだけれど、長続きせず中途半端に使い慣れていった。例えば、中学2年位までで覚える英単語を使って別の言い方をして意志を伝える、とか相手の言った事の分からない単語、聞き慣れない言葉は無視して、分かった部分だけで文を組みたてる、などが得意になっていったにすぎない。要は場数を踏み、物怖じしなくなった。
 元々逆偏見はあっても、偏見はない。日本人はあまり好きな方ではない。今でもそう思う。もちろん英語が全てではない。新婚旅行で行ったスペインでは滞在中の2週間、英語はただの一度も通用しなかったし、昔のタイもほとんど使えなかった。東南アジアで自動車部品の商売をしていると、仕事の相手はほぼ100%中国人で、アアなんで中国語を物にしなかったんだ、と悔やむことになる。
 英語にしてもただ移動と商売だけなら、相手がよほど訛っていない限り困らなくなったが、それだけではつまらない。英語がもっと流ちょうに話せたら、話題も深まるしうまくいけば、ホテルのフロントの女の子とデートが出来るかもしれない。40歳代で別の会社にいた時、老人の社長のお供で香港・アメリカで通訳をやらされた。これは冷や汗ものだった。無理、無理、通訳なんてとても出来ない。相手の言ったことの半分しか伝わっていないだろうな。表敬訪問で良かった。
 後、翻訳しといてと英文のコピーを渡されるのには参った。工場の人とかに多かった。多分英語屋という職分があって、そこに渡せば同じような答えが出てくるとでも思っているんだろうな。辞書を引き引き、すごい時間をかけ相当な創作を加えて文章を書いた。長い文だと泣きたくなる。
 自分が相手の国に行っちまう場合は、案外楽だ。特に一人で行く時は、準備は大変でも出ちまえば何とかなるものだ。元来旅は好きだから苦にならないし、ホテルだって100ドルクラスの良い所だ。これだけは円高のメリットだね。商売では終始円高に苦しめられたけれど。
 問題は海外から顧客が来る場合だ。3日も4日もずっとアテンドして、商談をし食事を共にし、休日には観光案内までする場合、英語づくしの毎日になる。元々少ない単語数をフル回転して意志疎通を図っている内に頭がオーバーヒートしてくる。一度奇妙な体験をした。朝から夜遅くまで2人のドイツ人をアテンドして、帰宅する為に地下鉄に乗った。電車の中はそこそこ混んでいて、吊革につかまって立っている人がかなりいる。自分は入り口の脇に寄りかかって、疲れから放心状態で車内をボーっと眺めていた。酒が入っていて大声で話すサラリーマン。塾帰りなのか、うるさく話す女子高生。ちょっと待って、驚いたな、みんな英語でしゃべっているじゃないか。何で日本人のサラリーマンが、女子高生が英語で話す?注意して内容を聞こうとすると、入ってくる音が英語。何を言っているのか、内容までは分からないが座っているオバさん同士までが英語を使っている。目を閉じても入ってくる音は確かに英語。これは軽い英語ノイローゼだな。
 この経験は一度きりだったが、シチュエーションは違っても同じ経験をした、という人に一度会った。こんな風に質の詰まった時間、普段の業務の果てしない英語のやりとり、質と量を繰り返している内に、やがて英語のレベルが一段上がったな、という瞬間が現れる。
 けれども使わなくなったら、その能力も徐々に消えてゆく。たまに使うと、ああ衰えたな、となる訳だ。ところが所変われば品変わる、コンプレックスの固まりだった英語が、すごい出来ると評価されるようになった。警備員の仕事を始めた時だ。最終的には外資系の現場で、英語手当まで付くようになった。世の中は広い。地球は丸い。上には上があり、下には下があるもんだ。
 
コメント
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