西行の和歌
大道
川田さん、吉野朝の歌に大峰に関係あるものがありますが。
歌人 川田順 氏
国立公園を歌の方から見るとかういふことになるでせう。萬葉集邊りには吉野山といつても主に川岸のことですから抜きました。先ず考へられるのは西行なんです。西行は逆コースをとつて峰入りして、那智の瀧にも泊まつてゐます。吉野山の名歌もいろいろありますが、西行の吉野の歌といふのは非常に有名で、一ツのグルッペが出来てゐるほどで、大峰にどうして来たか、奴さん―といふと友達見たやうで失礼ですが、あの人のライフの中期三十から五十位の間は高野時代といつてをりますが高野にもをつた。高野から吉野に来て、峰入りもしてゐます。今のお話の小篠とか行者還とか弥山といふやうなことも西行の歌の中に出て来ます。至るところで歌は詠んでをりますけれ共、歌としてはよくないです。兎に角、あれだけ偉い人が熊野から逆コースの峰入をして歌も大変多い。次には吉野朝の歌が出て来る。それからずつとありませぬ。そして幕末に一人出てくる。これは北山川の方をずつと歩いていた。紀州候の藩命を受けて和歌山藩の加納諸平といふ人が、紀州風土記を書いた。この人は再三峰に入つた。その熊野の歌といふのが有名です。七十首位あります。優れた歌です。旅行記です。それだけ歌の方から行くと国立公園に関しては大体三つに出てくるわけです。
宮城
行尊僧正のも二つ三つありましたね。
川田
さう云ふのは純文学としては問題にならんです。宗教の人としては別ですが、とても西行、吉野朝、諸平の歌などと比較にならぬです。
江崎
大台ケ原は吉野山、宮川、北山川の三つの川の水源地で、風の吹き方で水の出方が違ふといふが、大台には何か歌があつたやうだね。
川田
吉野川の伝説ですけれ共今の話で思ひ出すのは、
吉野川その水上をたづぬれば
むぐらの摘萩の下露
といふ歌で、非常に山の奥の景色が分かる。それよりいいのは幕末の人で大隈言道といふ人が歌つてゐる。
時の間に木草の滴おち合ひて
風にもまさる紀の川の水
今のお話の風の吹方によつて川の流れ方が違ふといふやうなことがよくわかる。如何にも吉野川らしい。加納諸平の歌には巴が池といふ長歌がある。それは伝説ですが、巴が嶽といふのがあつて、これは大台原にあたるでせうが、そこから北山川、吉野川、宮川と三つ出てゐる。それは徳川時代のことですから神秘的に、巴が池といふのがあつて水が巴に廻つて、一つは宮川に、一つは吉野に、一つは北山川に出てくる。その巴が池のある巴が嶽の歌といふのがあります。いい歌です。加納諸平の、いろいろ他に沢山ありますけれども、文学としてはこの三つ、西行、吉野朝加納諸平で、あとは問題にならぬ。
宮城
西行の歌を二ツ三ツ
川田
いゝ歌があります。峰入の、私は一寸覚えてをりませんが、かういふやうなのもあつたと思ひます。
山ふかくすみたる月を見ざりせば
思出もなき我世ならまし
少し違ふかも知れません、西行の山家集でお調べ下さい。怒田の宿、平治の宿といふやうなこともでてゐます。さて西行がここに来たのは、あの人は大体坊様になられた時は真言仏教です。それで高野の御坊に非常に参詣してゐます。大峰に来たのは道楽で歌を詠みに来たのぢやない。どうも修業らしい。吉野山ならぶらぶらと花を見に来たといふこともあるが、こつちは荒修業なんで。
大道
武士の果だからつよいんだらうね身体は、
川田
只の坊主ぢやない。
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