天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第九十三号 霊峰大峰の神秘を語る(座談会)② ―週刊朝日より転載―

2012年09月21日 08時31分18秒 | 座談会

峰入の道筋

大道

次に宮城さんに修験道の一番初めに入る行法から簡単に一つお話を。

聖護院門跡執事 宮城信雅 氏

峰に参る行者は各地方から沢山登りますが、以前は大峰山に登る前一週刊精進をするとかいろいろやつたものですが、今日では割合簡単に登るものが多いやうです。私の方は毎年大峰山に登つて修行してをりますので、その方からお話を致しましよう。大峰山と云ふのは、紀州熊野から大和吉野にまたがる大峰山脈であるから大峰と申しますが、又山上岳を金峰山とも申します。話は一寸脇道に入りますが、金峰山と云ふのは、この山に金があると云ふ伝説をもつてゐるのでありまして、それで思い出した事ですが、奈良の大仏さんをこしらえる時に、元はすつかり黄金で塗つてあつたのですが、その金を出すのに在所が分らぬので、良弁僧正が大峰山に登つて蔵王権現に金を頂きたいと願つた処が、権現のお告げに、この金は五十六億七千萬年の後に弥勒の出た後に使はねばならぬから、それまで使ふことは相成らぬ、しかし志は殊勝であるから教へてやろうと、「石山に行つて祈願せよ。」といはれた。江州の石山です。あそこに行つて金の出る処(奥州)の告げを得たと云ふので、昔から金峰山、金の御岳といつて金が出ると云ふ伝説があるんです。昔から高貴の方々も沢山お登りになりました。道長なども百ケ日の精進をして一族郎党と共にあそこに登つた記録もありますし、その時の経筒など掘出してをりますが、今日は百ケ日の精進などゝ喧ましいことは出来ませぬが、私の方、聖護院の方から山に登りますのも、二、三十年前とはよほど変りました。交通機関もよく出来ましたので、日数も少なくてするやうになつたのです。今年など登りましたのは電車から下りて六田といふ、吉野川の柳の宿といつてをりますが、あそこで水垢離をとつて――――水垢離の式といふのがありますが・・・・・・。

大道

大抵日は決つてをりますか、出る日は、

宮城

出る日は大抵七月十日に出てゐますが、今年は事変一周年といふので、特別に武運長久祈願のために七月七日に出ましたが、先ず橿原神宮にお参りをして、それから吉野川のあそこで水垢離をとつて、吉野神宮にお参りして吉野山にはいり各霊場を祈願して廻り、吉野山で一泊しまして、翌日は吉野から大峰に登るのでありまして、洞川を廻る時もありますが本年は吉野からすぐ山上に参りまして山上で護摩を焚いて祈願をし、それから翌日に弥山の小屋まで参ります。その道々七十五靡といふ行場があり、その行場をずつと修行して行きまして、弥山に泊つた翌日は連峰を駈け釈迦嶽を超えて深仙を修行してそれから前鬼山に下つて泊まります。二、三十年前は連峰をも一つ越えたので怒田宿平治宿といふところを通りましたけれ共今は通りませぬ。谷筋を通つて前鬼山の行場を済まして浦向に出て、そこに泊つて、翌日は笠捨峠を越えて玉置神社にまいる。そこにはもと私共関係の寺があつたのでありますが、そこに泊まりまして、玉置山から翌日は瀞に下つて、それから本宮、湯の峰といふ温泉郷に出て一泊し、翌日湯の峰を出発して今度は小舟で新宮に下りまして、新宮さんにお詣りをして、それから那智に出て那智権現で勤行してその足で勝浦に出て船で帰る。マア九日ほどかゝるんです。昔は七十日位かゝつたもので、維新前の記録を見ますと、順峰九十日、逆峰七十五日かゝつたさうであります。

 


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