天台寺門修験

修験道の教義は如何に

修験第九十三号 霊峰大峰の神秘を語る(座談会)② ―週刊朝日より転載―

2012年09月22日 18時48分08秒 | 座談会

行場の意味

大道

峰入りの人数はどの位と決まつてをりますか。

宮城

決まつてをりませぬが、余り沢山も困ります。現在のところ、大峰山上までは相当設備がありますが、それから奥は五十名位がよいところで、百名にもなれば困ります。

大道

三宝院さんの方はとは道が違ふんですか。

宮城

三宝院さんは山上の小篠から引返されます。

登山家(大朝社員) 藤木九三 氏

行場といふのは特に設けてゐるわけですか。

宮城

身心鍛錬のためです。

藤木

特にお籠をして行をするといふことになるのですか、矢張り峰入りの時お通りになるといふわけですか。

宮城

峰入りの時に行者が特別に修行をするんです。道筋にあるのもありますけれども、特別に入込んで行をしなければならぬところはそこまで修行にいきます。大峰山、前鬼山に裏行場がありますが、さういふところは特に修行に入込みます。

藤木

私は皆様にお尋ねしたいんですが、岩登り、山登りといふ特殊なものがあるんですか、役の行者が特にさういふ岩登りのやうな危険な場所を選んだといふのも、日本特有のものぢやないか、外国で岩登りがありますが、これは百年も経たない。日本は千年以上前から役行者時代に修行のためにさう云ふものが出来てゐる。私共岩登り、スキー登山といふものを近代的登山といつてゐますが、千年も昔からあつて、子供なんかも足付、バランスをとることも自然に覚えてゐるのに系統的のものはないのでせうかあの岩に登るのに特殊の岩茸採りなど、いろゝ網など使うつてやつてをりますけれ共、それは別として登山といふことから大峰山といふことになつて来ると、昔からの道場となつてをるが、只修行道場といふと、人里はなれたどつちかといふと隠遁的な気持の様ですけれども、実はファイチングな気持で全精神肉体を山に打ちつけてて行く、そこに一つの光明を見出すといふやうな鋭い気持が、日本には、特に役行者にはさういふところがあるやうに見られるのですが、近ごろの体位向上運動、ハイキングといふやうなことが叫ばれてゐる時代に、この困苦欠乏に堪へるといふことをずつと続けて行き、肉体、精神を山にぶつけて行く、そこの気持、そういふ気持であゝいふ行場をこしらへられたことゝ思ひますですけれども、岩登りの技術とかいふ方面に特殊の記録とか何とか伝はつたものはありませんでせうか。

宮城

技術的の記録は知りませぬが、あの瞬間の気持は全力を持て岩にぶつかつてしまひますから一切の雑念を離れる。利己心もなくなる。只仏に委してしかも自力と他力と一つになつたところ、その境地に立つ。さういふ意味から殊さらにあゝいふ恐ろしいところも選んであるのでせうが、しかし、あの危険なところはちやんと今日まで、この岩はかう登る、この角はかういふ風にして廻るといふことが決まつてゐるんです。手足のかけ方、廻り方といふやうなものは伝統的に決つてをります。先に右の手をかけるべきところを左の手をたけたら右の手がかけられぬといふやうなところがあるんです。

 


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