こんばんは。
今日はどんよりとしたお天気でしたが夕方にはまた日が射してきたようです。
一日殆ど車の移動でしたので、寒さは感じませんでした。




今日は本来なら義姉の五十日祭を斎行することにしておりましたが、娘さんのH子さんがやはり五十日目にしてほしいと言われ
ましたので日延べすることになりました。
この日の為に車を予約しておりましたし割と早くにその旨を聞きましたのでキャンセルしても良かったのですが、先だって見た
夢に祖母が出て来たこともあり、それならばとその車を使い墓参りに行って来ました。
折しも日曜日、おそらくウィークデイは混むであろう高速や国道もガラガラに近いほど車がいません。
まぁ休みの日の早い時間ならそんなものでしょうね。
高速と言っても実家の墓のある隣の市までですし、そんなに乗るほどのこともないと思うのですが、申すようにウィークデイは
結構交通量の多い路線、途中までは、というよりほんのひと区間のみ通行してきました。
というか本来はもう二つ向こうまで走るつもりが要するに下りる場所を間違えただけの話でして;。
お休みの日が幸いして交通量はグンと少なく、久しぶりでのんびりと海岸線を走ってきたのでした。

最初に参ったのは先日夢に出て来た実母の母、つまりは祖母ですが、そちらの墓所へ足を運びました。
此処は3年前の豪雨で大きな災害があった場所でもあり、普段はチョロチョロとしか流れない川が氾濫し周辺の家屋もろとも
飲み込んで大惨事になった場所です。
ようやっと護岸工事も終わりつつあるようですが、未だに所々その爪痕は残っており、当時の凄まじさを物語っているようでした。
実のところ流された家屋でもう住めない、再建出来ないという方も少なくなく、今は新しく海岸側に公営住宅が建てられ、そちら
へ入居された方もいらっしゃるようです。
私の代ではこの辺りの方と既にお付き合いが無い故、おそらく親戚筋に当たるどなたかはそのような場所へ移られたのかと思い
ますが、それも定かではありません。
すれ違いにも難儀するような狭い道、しかも災害の復旧が未だに続いているせいか、街並みを外れるとまだまだ多く工事個所が
残っているようでした。
そんな急な坂道を上がったところへ墓所があります。
此処はもう何十年という歳月になりますが呉道路という高速道を通すために、それまであちこちにあった墓を一か所に取り纏めた
所でもあります。
それまでの祖母の家のお墓と言えば、細い畑の中の道をうねうねと歩いて行くような場所でしたのである意味車でも行き易くなり
便利にもなりました。
とはいえ山の際を切り開いて造成したこともあり、季節にもよったのかもしれませんがかなりの落ち葉が墓所のそこかしこへ
溜まっておりました。
祖母の墓は特に端っこの方でもあり、落ち葉が積もるように墓地へ散り敷いておりました。
ちょうど傍へ置いてあった熊手でそれらをかき集め、日頃無精しているお詫びの意味も込めて清掃させてもらいました。
なんとか格好だけでもそうして掃除を終え、お墓の前で手を合わせて拝みますと祖母が来たんか(来たのか)と声を掛けてくれた
ように感じました。
逝ったのは八十歳となっておりますが、頭の中へ浮かんだ面影はまだ祖母が元気で仕事をしていた頃の様子でした。
うちの家は俗に言う色々複雑な家というやつでして;(ま、何処でもよくある話ですが)この祖母は実母の母であり、継母が
我が家へ来た後には、祖母の元へ遊びに行くという事が出来なくなっておりました。
それでも時折こっそりと親に内緒で祖母の勤めていたスーパーへ立ち寄ると、よう来たねと言いつつ、自分が揚げていた天ぷらの
サツマイモを食べんさい(食べなさい)と言って出してくれたりしておりました。
その後も結構この祖母とは繋がりがあるのですが、その話はまたいずれ何処かで出来ればと思います。
祖母の墓と近しい親戚の墓もその近隣に同じように建立しており、それらに一つ一つ手を合わせて拝んで参りました。
自宅へ戻り、写真に撮って来た墓に刻まれている祖母が逝った年を見れば平成五年となっております。
数えて見ると三十二年、いわゆる三十三回忌に当たる年ですよね。
亡くなったのが十月、そう考えると遠方に居る叔父や市内に居る叔母ではありますが、どちらもこの祖母以上の年齢となり
とてもではありませんが、法要を営むことも能わないのではと感じました。
となれば一番手っ取り早く?またこの辺りで言う「業をいらす」つまりは何かと手を焼いた孫娘の夢の中に出て来たとしても
おかしくは無い話です。(おいよ;)
いえ、おそらくそうなのでしょう。
祖母を知る近隣のそれら親戚の者や身内に出たとしてもどうにもならない、ならばこの子(という歳ではありませんけどね;)に
物を言う方が手っ取り早い、そう考えたのかもしれません。
墓へ参ったとてこのように手を合わすくらいしか出来ない罰当たりな孫ですが;夢に出て来てくれる程、思っていてくれたと
考えればむしろ嬉しくさえあります。
墓参り、そればかりが頭にあり、まともなお供え物すら持参しなかったやっぱり出来損ないな孫ですが(全くねぇ;)次には
祖母が好きであった好物を思い出して持って参ろうと思います。
多少なりとも喜んでくれればと思うところです。


続いて登ってきた道を更に登り、山越えをして次には実家の墓所へと参りました。
先にも書いたように豪雨災害でかなりの土石流が発生した場所でもあったその辺り、元の道を大幅に削り取りながらその道をも
飲み込むようにして流れて行ったようです。
未だに砂防ダムが建設されている最中なのか、以前は小道を入った辺りに滝もあったはずですが、それすら跡形もなくなり今は
無残な山肌が露出するばかりとなっておりました。
それでも安全には代え難く、狭い割には交通量のあるその道路は今後道幅もかなり拡張されつつ、また川の進路もかなり変えられ
ながらの工事が進んでいるようでした。
災害のあったあの晩、おそらくその辺りで豪雨の為動かなくなった車を救助しようとした若い警官お二人も飲み込んでしまった
濁流のあった場所。
車を右に左に走らせながら、大変なことがあったんだと思わざるを得ない気持ちになりつつ、ご冥福を心の中で祈っておりました。

続いての実家の墓所、此処は恐らくですが戦後に呉市がこの場所を共同墓地とした所なのだと思います。
多くの墓石が建立されておりますが、申すように戦後間もない頃に開発?されたのだとすれば道幅が狭いのも頷ける話で、かなりの
急坂を歩いて登るには途中何度も休憩を入れねばならぬ程ですが、子供の頃はそんな道を同居していた父方の祖母と共に夏の朝
早くにえっちらおっちらと兄弟らと共に参っていた気がします。
今はその道をなんの造作も無くという程、車でものの5分も上がれば済む場所、それでもお盆や春秋の彼岸の頃には上下共に
身動き出来ぬ程の車でごった返す場所でもあります。
今日はしかし訪れる人もまばらで、年末のこの時期、お墓を綺麗にしてご先祖様にも新年を迎えてもらおうという思いからか
多少のお参りはあったようでした。
自分にしてみれば祖母のお墓へ参ったのならば実家の墓も参らねばそれこそ罰当たりな奴め、とご先祖様にお目玉食らいそうで;
(それはありませんが 笑)此方へも足を運んだのでした。
先の母方の祖母の墓とこの実家の墓、今夏に息子と参ったかと記憶しておりますが、その後彼岸に実家の兄夫婦が参ったのか
どうか、一応お盆の灯篭(この辺りの慣習で夏には極彩色の、竹で作った灯篭を供えます)は撤去してありましたが、それ以降は
来た風にはありませんでした。
まぁ嫁に出た身がとやかくいうのもこれまた罰当たりな話ですし(今日はそんなんばっかりですね;)伸びかけている草を引き
幾ばくかの掃除をしたつもりになって手を合わせてお参り致しました。
今年の三月、本来なら父の十三回忌でしたがこの度の疫病騒ぎでそれどころではなくなり、この話もそれ以降聞いておりません。
皆が集まって法要するのも大事ですが、こうして時折お墓に来るんだから大目に見てよね、そんな気持ちで父に手を合わせて
おきました。
ま、父にせよ文句があるならまたもや夢枕に立つのでしょうし(笑)そのうち何か伝えてくるでしょう。
息子に言わせれば、大丈夫よ、もう死んどるんじゃけん(死んでるのだから)とかなりなご発言をしておりましたけどね。(おいおい)

こんな感じでお墓参りをして来ました。
まだもう少し伝えたいことがありますが、これまたいつもの如くこんな風にして書いているものですからどうにも終わりそうに
ありません;。
ですのでもう一回程、続きを書かせて頂ければと思います。
いえ全く大したことではありません、これも毎度の如く;。
本人が気が済むように書きたい、ただそれだけです、はい。

いつに劣らず稚拙な今日のブログ、スピな要素は全くありませんが、それでも変わらずご訪問下さいました皆様、有難うございます。
感謝申し上げます。
今日はどんよりとしたお天気でしたが夕方にはまた日が射してきたようです。
一日殆ど車の移動でしたので、寒さは感じませんでした。




今日は本来なら義姉の五十日祭を斎行することにしておりましたが、娘さんのH子さんがやはり五十日目にしてほしいと言われ
ましたので日延べすることになりました。
この日の為に車を予約しておりましたし割と早くにその旨を聞きましたのでキャンセルしても良かったのですが、先だって見た
夢に祖母が出て来たこともあり、それならばとその車を使い墓参りに行って来ました。
折しも日曜日、おそらくウィークデイは混むであろう高速や国道もガラガラに近いほど車がいません。
まぁ休みの日の早い時間ならそんなものでしょうね。
高速と言っても実家の墓のある隣の市までですし、そんなに乗るほどのこともないと思うのですが、申すようにウィークデイは
結構交通量の多い路線、途中までは、というよりほんのひと区間のみ通行してきました。
というか本来はもう二つ向こうまで走るつもりが要するに下りる場所を間違えただけの話でして;。
お休みの日が幸いして交通量はグンと少なく、久しぶりでのんびりと海岸線を走ってきたのでした。

最初に参ったのは先日夢に出て来た実母の母、つまりは祖母ですが、そちらの墓所へ足を運びました。
此処は3年前の豪雨で大きな災害があった場所でもあり、普段はチョロチョロとしか流れない川が氾濫し周辺の家屋もろとも
飲み込んで大惨事になった場所です。
ようやっと護岸工事も終わりつつあるようですが、未だに所々その爪痕は残っており、当時の凄まじさを物語っているようでした。
実のところ流された家屋でもう住めない、再建出来ないという方も少なくなく、今は新しく海岸側に公営住宅が建てられ、そちら
へ入居された方もいらっしゃるようです。
私の代ではこの辺りの方と既にお付き合いが無い故、おそらく親戚筋に当たるどなたかはそのような場所へ移られたのかと思い
ますが、それも定かではありません。
すれ違いにも難儀するような狭い道、しかも災害の復旧が未だに続いているせいか、街並みを外れるとまだまだ多く工事個所が
残っているようでした。
そんな急な坂道を上がったところへ墓所があります。
此処はもう何十年という歳月になりますが呉道路という高速道を通すために、それまであちこちにあった墓を一か所に取り纏めた
所でもあります。
それまでの祖母の家のお墓と言えば、細い畑の中の道をうねうねと歩いて行くような場所でしたのである意味車でも行き易くなり
便利にもなりました。
とはいえ山の際を切り開いて造成したこともあり、季節にもよったのかもしれませんがかなりの落ち葉が墓所のそこかしこへ
溜まっておりました。
祖母の墓は特に端っこの方でもあり、落ち葉が積もるように墓地へ散り敷いておりました。
ちょうど傍へ置いてあった熊手でそれらをかき集め、日頃無精しているお詫びの意味も込めて清掃させてもらいました。
なんとか格好だけでもそうして掃除を終え、お墓の前で手を合わせて拝みますと祖母が来たんか(来たのか)と声を掛けてくれた
ように感じました。
逝ったのは八十歳となっておりますが、頭の中へ浮かんだ面影はまだ祖母が元気で仕事をしていた頃の様子でした。
うちの家は俗に言う色々複雑な家というやつでして;(ま、何処でもよくある話ですが)この祖母は実母の母であり、継母が
我が家へ来た後には、祖母の元へ遊びに行くという事が出来なくなっておりました。
それでも時折こっそりと親に内緒で祖母の勤めていたスーパーへ立ち寄ると、よう来たねと言いつつ、自分が揚げていた天ぷらの
サツマイモを食べんさい(食べなさい)と言って出してくれたりしておりました。
その後も結構この祖母とは繋がりがあるのですが、その話はまたいずれ何処かで出来ればと思います。
祖母の墓と近しい親戚の墓もその近隣に同じように建立しており、それらに一つ一つ手を合わせて拝んで参りました。
自宅へ戻り、写真に撮って来た墓に刻まれている祖母が逝った年を見れば平成五年となっております。
数えて見ると三十二年、いわゆる三十三回忌に当たる年ですよね。
亡くなったのが十月、そう考えると遠方に居る叔父や市内に居る叔母ではありますが、どちらもこの祖母以上の年齢となり
とてもではありませんが、法要を営むことも能わないのではと感じました。
となれば一番手っ取り早く?またこの辺りで言う「業をいらす」つまりは何かと手を焼いた孫娘の夢の中に出て来たとしても
おかしくは無い話です。(おいよ;)
いえ、おそらくそうなのでしょう。
祖母を知る近隣のそれら親戚の者や身内に出たとしてもどうにもならない、ならばこの子(という歳ではありませんけどね;)に
物を言う方が手っ取り早い、そう考えたのかもしれません。
墓へ参ったとてこのように手を合わすくらいしか出来ない罰当たりな孫ですが;夢に出て来てくれる程、思っていてくれたと
考えればむしろ嬉しくさえあります。
墓参り、そればかりが頭にあり、まともなお供え物すら持参しなかったやっぱり出来損ないな孫ですが(全くねぇ;)次には
祖母が好きであった好物を思い出して持って参ろうと思います。
多少なりとも喜んでくれればと思うところです。


続いて登ってきた道を更に登り、山越えをして次には実家の墓所へと参りました。
先にも書いたように豪雨災害でかなりの土石流が発生した場所でもあったその辺り、元の道を大幅に削り取りながらその道をも
飲み込むようにして流れて行ったようです。
未だに砂防ダムが建設されている最中なのか、以前は小道を入った辺りに滝もあったはずですが、それすら跡形もなくなり今は
無残な山肌が露出するばかりとなっておりました。
それでも安全には代え難く、狭い割には交通量のあるその道路は今後道幅もかなり拡張されつつ、また川の進路もかなり変えられ
ながらの工事が進んでいるようでした。
災害のあったあの晩、おそらくその辺りで豪雨の為動かなくなった車を救助しようとした若い警官お二人も飲み込んでしまった
濁流のあった場所。
車を右に左に走らせながら、大変なことがあったんだと思わざるを得ない気持ちになりつつ、ご冥福を心の中で祈っておりました。

続いての実家の墓所、此処は恐らくですが戦後に呉市がこの場所を共同墓地とした所なのだと思います。
多くの墓石が建立されておりますが、申すように戦後間もない頃に開発?されたのだとすれば道幅が狭いのも頷ける話で、かなりの
急坂を歩いて登るには途中何度も休憩を入れねばならぬ程ですが、子供の頃はそんな道を同居していた父方の祖母と共に夏の朝
早くにえっちらおっちらと兄弟らと共に参っていた気がします。
今はその道をなんの造作も無くという程、車でものの5分も上がれば済む場所、それでもお盆や春秋の彼岸の頃には上下共に
身動き出来ぬ程の車でごった返す場所でもあります。
今日はしかし訪れる人もまばらで、年末のこの時期、お墓を綺麗にしてご先祖様にも新年を迎えてもらおうという思いからか
多少のお参りはあったようでした。
自分にしてみれば祖母のお墓へ参ったのならば実家の墓も参らねばそれこそ罰当たりな奴め、とご先祖様にお目玉食らいそうで;
(それはありませんが 笑)此方へも足を運んだのでした。
先の母方の祖母の墓とこの実家の墓、今夏に息子と参ったかと記憶しておりますが、その後彼岸に実家の兄夫婦が参ったのか
どうか、一応お盆の灯篭(この辺りの慣習で夏には極彩色の、竹で作った灯篭を供えます)は撤去してありましたが、それ以降は
来た風にはありませんでした。
まぁ嫁に出た身がとやかくいうのもこれまた罰当たりな話ですし(今日はそんなんばっかりですね;)伸びかけている草を引き
幾ばくかの掃除をしたつもりになって手を合わせてお参り致しました。
今年の三月、本来なら父の十三回忌でしたがこの度の疫病騒ぎでそれどころではなくなり、この話もそれ以降聞いておりません。
皆が集まって法要するのも大事ですが、こうして時折お墓に来るんだから大目に見てよね、そんな気持ちで父に手を合わせて
おきました。
ま、父にせよ文句があるならまたもや夢枕に立つのでしょうし(笑)そのうち何か伝えてくるでしょう。
息子に言わせれば、大丈夫よ、もう死んどるんじゃけん(死んでるのだから)とかなりなご発言をしておりましたけどね。(おいおい)

こんな感じでお墓参りをして来ました。
まだもう少し伝えたいことがありますが、これまたいつもの如くこんな風にして書いているものですからどうにも終わりそうに
ありません;。
ですのでもう一回程、続きを書かせて頂ければと思います。
いえ全く大したことではありません、これも毎度の如く;。
本人が気が済むように書きたい、ただそれだけです、はい。

いつに劣らず稚拙な今日のブログ、スピな要素は全くありませんが、それでも変わらずご訪問下さいました皆様、有難うございます。
感謝申し上げます。