日々徒然なるままに

日々感じたことを書いていきます、よろしくお願いします

傘を失くしたその訳は

2020-04-29 19:20:08 | 家族のこと
こんばんは。
朝から良いお天気で始まりました。



                                  




                                



                                



                                 



実は昨夜我が家では大変な事態が発生しまして。
と書くとなにやらとんでもないように思えますが、まさにとんでもないことが起こっておりました;。
先日、自分のお気に入りの傘を無くした、別の日傘の石突きが曲がってしまったと一人嘆いておりましたよね。(お騒がせしております;)
昨日、もうひとつ壊れたものがありました。
長年使っていた衣類乾燥機、これがとうとう壊れてしまったようでした。
結婚してからこっち、主人が(本人曰く、ですよ)皮膚が弱いので自分の下着やらタオル類は全て乾燥機にかけてくれと常々言っていました。
そんなこともあり我が家では結構長い間、この衣類乾燥機を使用するのが当たり前となっています。
主人亡き後、電気代も掛かることだし、この際止めるかと一時期使うのを止めていたのですが、使わずにタオルを乾かすとこれまたふんわりと
した感触はなくなる訳でして、やっぱり使うかとなり、そのまま継続して使用してきました。
今の乾燥機は主人が居た頃に買い換えた覚えがあり、そう考えると10年はゆうに経っています。
途中、部品を幾度か交換したりしつつも最近はどことなくだましだまし使っていた感は否めませんでした。
そんな、いつ不具合で止まってもおかしくないよな;と感じながらだったので、その時がとうとう昨日のその時点で訪れたようです。
最後にピーーーッと音がして、見てみればあれこれの動作のボタン部分が一斉に点灯しております。
ああ、もうこれはお役御免だなと感じ、長い間不ご苦労様でしたとその乾燥機に言って、まだ生乾きのタオルを取り出したのでした。
と、そんなことがあったのが昨日の朝のこと。
うちのネコのことを昨日のブログで調子悪いと書いておりましたが、昨晩、それでも多少元気になったのか普通に二階から下りて来て、外に
出せというので仕方ないねと思いながら出してやりました。
しばらくして戻り、いきなり部屋の中で草を吐き戻すかして後、再び窓から出てしまいました。
具合悪いのかな?と思いながらおりますと外から物凄い声、広島弁でおらぶという言い方をしますが、なんともいえぬ大きな苦しそうな声で
鳴きだしました。
何事?と最初は思ったのですが、そのままにしておくわけにもいかず、暗い中でうずくまっている子を抱きかかえて戻ると、これまでに見た
ことのない顔つきになっています。
目の周りは赤くしょぼつき、どうにも普段の様相とは違います。
このまま放って置くといけない、でもどうしょう;と思いながらも息子に電話したり、その前にネットで獣医さんを探したりしました。
その間にもなんとも苦しそうで、早くなんとかせねばと思い夜間の獣医さんの救急病院へ電話し、タクシーを呼び、そこへ行く事としました。
普段獣医さんへ行くとなるとキャリーバッグには相当な抵抗をして入るまいとしますがこの度はそんな気力もないようでした。
ややして来てくれたタクシーに乗り、そこそこ距離のあるその救急病院へと向かいます。
この時点で9時を回っていたでしょうか。
夜間の救急とあり、結構あちこちからワンちゃんやらを連れてこられているようです。
自分の前の方の診察が終わり、獣医さんへ診てもらうことになりました。
これまでの経緯を一通り説明し、ネコを診てもらいますが、事故等の怪我はなさそう、目が赤いということは何かのアレルギー反応かとも
言われましたが、いきなりのことで分かろうはずもありません。
取りあえずまずは血液検査をしてもらうこととしました。
採血の間もまったく声を出すこともなく、かなり衰弱しているようです。
結果が出るまで待合でお待ちくださいといわれ、もう一度ネコをキャリーバッグに入れ、診察室を出ました。
その間に息子から電話出来る?とラインが入っており、他に人も居ませんでしたので、そこで手短かにこれまでの事を電話しました。
し終わると、どうぞ中にお入りくださいと呼ばれ、結果を教えて抱きました。
検査から分かったのは肝臓の数値、GPT,GOTが共にかなり高いということ、これはアレルギー反応がある時もこんな風に出ることもある
または何かの薬物、毒物等を口にしたらば、今後余計に悪くなり劇症肝炎へと移行するかもしれない、今分かるのはこれくらいで治療と
しては点滴の中にビタミン剤と吐き気止めをいれてあげることと話されました。
自分自身、気が動転しており、他にも説明はあったのでしょうけれど、これくらいしか覚えておりません。
いずれにしても今夜はその対症療法としての点滴をしてもらうことにしました。
点滴をされる間中、別の獣医師さんに抱きかかえられておりましたが(医師の方ではないかもですが;)抵抗することなくなされるがままに
しておりました。
いつもこんなに大人しいの?と聞かれますが、いやさすがにこんなことはないです、ととてもハキハキ対応して下さる女医さんに伝えておりました。
そのうち点滴も終わり、キャリーバッグへ入れる際には体温が低いことを慮って敷いていたタオルの下へ温めた点滴のバッグを湯たんぽ代わりに
と入れて下さいました。
なんとか診察を終え、また待合いでしばらく待つ間次の患者さん?を連れた方が来られました。
キャリーバッグの中にはこちらもネコさんが不安そうな感じで入っていましたね。
夜間になり、他には何処へも開いてない時間帯ですから朝まで待てないという救急のこの外来は結構訪れる方が多いようです。
その代わりといっては申し訳ないのですが、初診料も診察料等もかなり高くつきます;。
しかし命とどちらが大事かと言われれば答えは決まっていますよね。
(クレジットでも大丈夫ですよと言われるのはこんな緊急時には大変助かりました、一応最初の電話の際にも確認しましたが、かなりの金額を
言われて怖気づいたのも本当です;;)
帰りは行きしな乗ってきたタクシー会社に電話するとどうやら乗せてもらった方が割りと近くにおられたようで、結局は同じ車で戻ることに
なりました。
人の良いオジサンドライバーさんで行く時からかなり親切に声を掛けて頂いておりました。
聞けばどうやら同じ地域にお住まいのようで、道理で我が家へ上がるこのくねった坂道もよくご存じなのだなと感じたのでした。
家の前までつけてもらい、玄関へ入ると12時近く。
点滴して来た分、多少はさっきよりも良いのでしょうが、予断は許さない状況に変わりありません。
ネコを心配しつつも、温くなったお風呂に熱いお湯を今一度入れて冷えた身体を温めました。
夜中にどうにかなっていたらどうしよう;そう思いながら一応は自分も床に就きましたが、途中2時間ごとに様子を伺っておりました。
ネコ自身は帰ってきた時同様、そのままキャリーバッグの中で一晩過ごさせました。



                            



結局一晩経ってどうだったのか。
蓋を開けたままのバッグの中で寝ているネコを見ると、なんとかまだ息はしていました。
ああ、良かった;とひとまずは安心しますが、これも当然の如くまだ目には力がありません。
水は飲むかな?と思い、自分の指先に少しずつつけて口元へもっていくとペロペロと舐めてくれました。
その程度では飲んだということにはなりませんけども。
続いて、まだ無理だろうけれど、と生の餌を少しスプーンに載せて持っていくと、これは食べてくれました。
そこでほんの少しを皿にあけると、今度はそれを自ら食べ始めました。
本来餌自体をやってよいものかどうかわかりませんが、食べてくれたなら良いか、とその時は思っておりました。
そうしつつも、こんなにさせてしまってごめんよぉ、あの時外に出さなかったら;とネコの顔を見ながら、いつになくワンワン泣いてしまいました。
これまでネコを何匹か飼ってきましたが、ここまで泣いたのはそうないかもしれません。
今は家族といえば、このネコと自分だけ。
他人(ひと)からすればただのネコですが、自分にとってはかけがえのない家族の一員です。
ですので尚更だったかと我ながら思います。
その後、祝日でもやっているかなとこれまでお世話になっていた獣医さんに電話をしましたが、休日ということであまり芳しい答えは頂けません
でした。
ならば明日にしますと電話を切りました。
肝心のネコはといえば、案外としっかりしてき、自分で歩ける、ともすれば小走りくらいはするようになっており、昨夜のことを考えると
うそのようでした。
それでもこれも当然ながら本調子でないことは分かりきったこと、今日はこの子のために病気平癒(びょうきへいゆ)の祝詞を上げさせて
もらおう、そう思い、装束に着替えてその後は神殿へ参りました。



                                   
                                    (ちょっと前の写真です)



装束を身に着けると心なしか気も引き締まります。
いつも以上に(というといつも真面目にしていないようですが;そんなことはありませんよ)丁寧に謝恩詞という祝詞をあげ、その次に
病気平癒の祝詞を奏上致しました。
次にはネコのところへ奉幣(ほうへい)を持っていき、左右に振って今一度神殿へ戻ります。
最後は神様の前で祈念し、終了となりました。
その際、神様、大神からは

  “ そちの家族(うから)だからの

   ようなるようにの  ”

このように言われました。
この言葉を聴き、思わずまた泣けてきたのでした。
ところでこの家族と書いて、うからと呼びますが、祝詞を聞かれておりますと「うからやから」という言葉を耳にされるかと思います。
これは漢字にあてはめると「家族生族」となり、その名の如く、家族であったり一族郎党とお考え頂ければというところですね。
「やから」といえば、つい「輩」の文字を思い浮かべますがそうではありません、お間違えのないように。
話は脱線しましたが、言われるように大事な家族の一員、いつまでも元気で居てほしい、そう願うばかりです。



                                




此処で最初に書きました乾燥機の故障、傘を無くしたこと、壊れたこと、我ながらどうしてこうも続くかな、しかも結構大事と感じている物が
と思っておりました。
これらはどうやらこの度の我が家のネコの身代わりだったのではと感じております。
それにしては安いんじゃない?とも思われるでしょうか。
これらはどれも身体を雨から濡れるのを防いだり、あるいは身体に纏うものを乾かしてくれたりと、何かと身体に関連しているものかなと
こじつけではありますが、考えたりもしました。
そう思えば長年大事にしてきたものでもあり、お気に入りだったことも加味すれば、ネコの身代わりにはある意味、その役目を果たしてくれた
のではと考えたりもしたのでした。
物は替えが利きます、けれど命だけはこの命だけ、日頃自分などは魂、御霊は続いていくものなどと大層なことを抜かしておりますが;
今のこの子はこの子だけしかいない、そう今回は強く感じた次第です。
明日、もう一度獣医さんへ連れて行こうかと思います。
先ほど、また生の餌は食べてくれましたので、そこそこ大丈夫かとは思いますが、まだ分かりませんよね。
元気になってくれることを祈るばかりです。



                                



今日はいつもと少し違うお話を、しかも長々と書かせて頂きました;。(すみませんです;)
それでもいつに変わらずお付き合い下さいました皆様、有難うございました。
感謝申し上げます。
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叔父の引き際

2019-01-30 21:03:18 | 家族のこと
こんばんは。
先日雪が降りましたが、それ以降は目立って天候が崩れることはなく晴天が続いております。
活動するには何かと楽ではありますが、インフルエンザ等のこと、また作物、水の量等を考えると一概に喜べないところですね。
もう少し降ってほしい、雪でも雨でもというこのところです。


                                   


                                    





                                   




                                      




                                         





昨夜のシリウス、続いて今朝の空です。
昨日ブログでは眠いと書いておりましたが、あの後お風呂に入りグズグズしておりますと眠いけれども寝られないというそんな感じになり
結局床に就いたのはいつもの零時近く、また布団に入った後も神経が昂ぶっていたのかいつまでも頭が変に冴えているようでした。
夢も朝起きた時には結構覚えておるほどでしたが、それも次第に薄れておりました。
いずれにしても身体は疲れていても休めない、そんな風でした。  




                                        




それでも一晩寝ると気持ちもかなり持ち直しており、昨日の葬儀の続きを書くのもどうだかな;という気にもなっております。
最中の様子はあのようなものですし、どうもね;ですけれど。
そう感じながらもとうとつと書かせて頂くことと致しました。

後は出棺し斎場にて最後の別れとなります。
棺が火葬場の扉の向こうへ行ってしまい最後に閉められボタンを押されると、とうとうこれであの姿には会えないんだなとより一層寂しさが
募りました。
分かっていてもどうにも出来ない気持ちというのがあるもんだなぁと我ながら感じていたのでした。
そうこうしつつも待合室ではこの時間を利用してお昼のお弁当が用意されておりました。
昨日も申したように見知った顔は従兄弟くらい、後はほぼ叔母方のご親族でもあり結局はそのように分かれてそれぞれに食事を取りました。
弟は葬儀の最中に会社からの電話で出棺のタイミングで一足先に戻りました。
食事をしながら叔父について話をしつつ、外に目をやると気持ちがよいほどのお天気です。
斎場自体がまだ新しく一面のガラス張りの向こうには山並みとともに遠くには瀬戸の海も見えるようです。
こんなお天気の良い日に葬儀ということは、叔父は案外と日を選んで逝ったのかもしれない、とふと感じておりました。
息絶えたのはこの27日の日曜日の朝、雪が降った次の日です。
と言っても叔父の住まう処は割りと暖かい沿岸部であり、雪までは降らなかったのではとも思います。
それまでどのようにして叔父が亡くなったのか全く分からず、自分ら親戚が知らぬ間に患ってでもいたのだろうかと考えておりましたが、そうでは
なかったようでした。
叔父の息子、今回喪主を務めた長男、つまりは彼も従兄弟となる訳ですが、その彼の話によると彼自身とても出張が多い仕事らしくこの27日の
朝もその出張に出かけるところだったのだといいます。
いつも寝ている父親に一声掛けて出かけるとこのことで、この日も普段通りに行ってくるよと声を掛けると大抵、ああ、とか気をつけてなと言葉が
返ってくるのに、その日に限って何も返答がなかったのだそうでした。
不振に思い、部屋へ入り身体に触れてみると既に冷たくなっていたとのことでした。
前日の夜まで特に変わった様子もなく、少ししんどいけど、と言いつつも普段通りに床に就いたようでした。
結局は寝ている間に逝ってしまっていたのだろうということでした。
家族にとってみれば、まさに突然の事で何も予想もしていなかったと言います。
それで葬儀の際、この長男の妹、従姉妹はなんとも言えぬほど泣いておったのかとその時に改めて感じました。
確かに自分の父親ですから悲しくない訳はなく泣いて当然ですけれど、どうにもならぬほど悲しみが強いように思っておりました。
彼女自身は嫁いだ身であり、実家とは離れた広島市内へおります。
訃報を聞いて、まさかと思いながら実家へ戻ってきたのだろうことは想像に難くありません。
それはこの長男とて同じ思いでしょう。
昨日まで何の変哲もなく、やや疲れたとはいえ普通であった父が別れの挨拶をすることなどなくいきなり此方の世界を旅立ったのですから。
生涯無口であり決して怒るということのない人でした、と同時に声を上げて笑うということも少なく、子供や孫らにしてみればそんな父親、
おじいちゃんを如何にして笑わせるかが課題のようなものだったとも話してくれました。
従姉妹はまた、母親を家で殆ど一人で面倒をみていた父だったけれど、少し前に母をようやっとで施設に入れることが出来、少しばかりホッと
した気持ちもあったのではないのか、そんな風に話しておりました。
自分の役目も一応はひと段落した、そのように思ったのかもしれないとも言っておりました。
無口な叔父、おにいちゃんにしてみれば此方にすれば突然にみえても、案外と全てし終えた後の引き際だったのかもしれません。





                                    






今朝は久しぶりで祝詞奏上をさせて頂いたように感じます。
大神からの言葉を受け取りました。

 大神

 (叔父のこと)


 “ この御霊 今しばし此方(の世界へ)おるであろう    

   別れは この者にとっては この時と決めておったようなもの

   あまりに突然な事ゆえ 周りの者は驚き 悲しんだであろうが

   今しばし思い出を語り合うが良かろう

   機会あれば また ○○○    ”


祝詞の後、奉幣を振りながら頭の中へ浮かんだ言葉です。 
やはり考えてしまうのは、どうしても叔父のことであり、それを思いながらおりますとこのような事を言われたのでした。
此方の世界というのは、我々がいるこの3次元のことと思います。
既に目に見える肉体はないけれど、御霊、魂としてはこの世とあの世の中間位にいるのではないのか、そう思います。
そのような世界で自分達には見えずとも、御霊として自由にあちこちへ行っておるのではとも感じます。
うちの主人は亡くなる前に勝手に?肉体を飛び出して知り合いのところを訪ねていたようでしたけれど、それはあくまで身体が不自由であった
が故に一足早くそうしていたのでしょう。(このことは以前に書いておりますね)
叔父の場合は、身体は不自由ではなくとも行動自体が何かと制限されることが叔母の事などからもあったのではとも思います。
あくまで自分がそう思うだけのことですけれど。
今はそれらの制限が外れたため、いつでも叔母のところへも行き来し、また行った先の相手には分からずとも何かを話しに行っておるのかなとも
思います。
或いはこっそり夢に忍び込んで一緒にストーリーを展開させているのかもしれません。
いずれにしても自由の身でしばらくは居るのではと感じております。
別れ自体も、殊に家族はあまりに突然でお別れすら言えていないことに悲しみとも辛さとも言えぬ思いがあるでしょうけれど、この時に逝く事は
既に取り決めていたこと、つまりは寿命であったのかも、とも思います。
何にせよしばらくは互いに叔父の思い出を語り合うことが一番なのではと考えます。
機会あれば云々・・・は、どうも自分の書き方が悪く、後で読み返しても判読できませんでした;。
申し訳ありません;、そのうち分かればまた掲載させて頂きます。




                                      
                      



今日の午後からはある方に会いに行っておりました。
そのお話はまた次回とさせて下さいませ。




                                         




家族のことは家族にしか到底分かろうはずもなく、ひと様にお聞かせするものでもないのかもしれません。
けれど自分自身がここへ記させて頂くことにより、少しでも叔父への思いを残せておけたならとも感じております。
独りよがりのセンチメンタル何チャラ;となりそうですけれど、少しばかりお目こぼし頂けましたら嬉しく思います。

それと、人間ってそんな悲しい時でもどこかしら面白い場面を見つけてしまうものですね、不謹慎ですけれど;。(すみませんです;)
その笑い話;の部分もまた取り上げさせて頂ければと思っております。
その折にはどうぞ宜しくお願い致します;。




                                       




本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。
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寂しいこと、二つ

2019-01-28 19:31:48 | 家族のこと
こんばんは。
一昨日雪が降ってからはこの辺りもようやっと?冬らしい気候になっておるようです。
それでも気温はそこまで低くはなく、今日も寒いとは言え耳が千切れるほどの冷たさは感じませんでした。





                                 


                                                                    


                                      




昨日、車を返してバスを降り、いつもの道を通って帰るのに何かしら様子が違うと思いました。
道の脇の少し高い位置に鬱蒼と木々が茂っており、バスが通る道よりも一段下がったその道を通るのには先ほどまでの車の喧騒も聞こえなくなり、
歩いて帰る道々どことなくホッと出来る場所でもありました。
確かに木立がある分若干暗くはありますが、そこは日が当たりにくく夕方は西日を遮るには丁度よいところでもありました。
また常緑樹でもあったのか、葉が落ちることもなく、ともすれば小鳥たちのささやかな憩いの場ともなっていたのかもしれません。
そんな木々が昨日の夕方の帰宅時にはバッサリとその殆どが無残と言えるほどに切り倒されておりました。
一昨日、いえもう一日前であったかバス通りに面したある一画がかなり以前から売りに出されておりましたけれど、この変形の土地を買う人が
いるのかねぇ、と一緒によく散歩する方と眺めながら通ったばかりでした。
その際にはこれまで同様全く何事もなかった訳ですが、おそらく昨日とその前の日でその土地の裏側に当たるこのこんもりとした木々を刈り払った
ようでした。
その切り払われた木々に小鳥が巣でも掛けていたのでしょうか、なんとも言えぬ悲壮な声でいつまでもキーキーと鳴いており、突然に失った自分達の
住処をどうすればよいのか、と嘆いているように感じられました。
そんな鳴き声を否が応でも聴きながら、やけに明るくなった、いえなり過ぎたと感じるその道を自分自身もなんともやるせない思いで歩いて帰った
のでした。
変形であっても土地は土地、そこを購入した人が、そちら側からすれば東に当たる場所に茂っている木々を伐採してくれと頼んだのかもしれません。
実際のところはどうであれ、人間の都合だけでこれまで長らくそこへ植わっていた木々もほんの何時間の間にチェーンソーで切り倒され、後は
見えるはずのない場所へ空が見えるようになったということなのでしょう。
話をすればただそれだけの事なのですけれど、何もかもが人間の都合で決められてしまうことに何とも言えぬ思いがした自分なのでした。




                                      




昨日、あまり連絡の来ない兄から電話が掛かってきていました。
色々と事情のある実家;それほど仲が悪いわけではないのですけれど自分がその時走行中で電話に気づいたのは随分と後のこと。
何かあるならまた後で掛け直してくるだろう、と此方側の応対も棚に上げてそのままにしておりました。(なんちゅう奴だ;)
その兄から今朝方また電話があり、さすがに今回は出ました。(当たり前ですよね;)
何かあった?と聞くと叔父が亡くなったと言います。
もしかして昨日の電話はその電話だったのとなお聞けば、そうだと話してくれました。
兄の話では昨日の夕方に、叔父の家族から兄に連絡があり、それを私に伝えようとしてくれていたのでした。
昨日の時点で分かっていれば、と思いながら自分の馬鹿さ加減を思いました。

この叔父、自分が物心つく前から実家では父方の両親(私からは祖父母)、自分達親子、それにこの叔父という家族構成であったようです。
ですので自分が覚えているのは叔父さんというよりも常に一緒にいたおにいちゃんという立場の人であり、要するに家族の一員でした。
そのうち実母が自分が小学3年になる前の春休みに他界し、その後は祖母、父親、それにこの叔父と自分達兄弟3人という家族構成になって
おりました。
祖父は自分2歳位でやはり他界しており、なんとなく記憶にあるだけです。
ともあれ、家族5人で暮らしており、そのうちにこの叔父も結婚することとなり家を離れました。
その後に、私と同い年の兄と共に継母が我が家へやってきたということです。
その後は何やかやとあって、ゴタゴタしておりました。(まぁ、私がゴタゴタを作った原因でもあるのですけどもね;)
おにいちゃん(叔父ですね)は他所で家を構え、というよりもおねえさん(結婚した奥さん、自分にとっては叔母の立場の方)の方へ半分婿に入る
感じでこれまでよりは疎遠となっておりました。
けれど、事あるごとに我が家へ寄ってくれ、時には少し距離のあるおにいちゃんの家に帰るには時間が掛かろうから仕事帰りでもあるし、夕飯を
食べていって、と母が夕食を用意しておりました。
元々我が家の家系は無口であり、それほど家族でワイワイとする方ではありませんでした。
以心伝心というのか、言わずとも伝わっているという家族同士の思いがあったのか、後で入ってきた母にしてみれば相当に気も重くしんどい
生活であったかと今にして思います。
そのような中で叔父が訪ねて来ると、母にしてみても少しばかりホッと出来るところがあったのかもしれません。
家族ではあるけれど、既に他所で暮らしている自分にしてみればおにいちゃん、母にとっては少しばかり息抜きの出来る義弟だったのかもしれ
ませんね。

そんな叔父の奥さん、おねえさん(叔母)とはその母が我が家に来る前からの付き合いでもあり、何かと良くして下さっておりました。
家では注文を受けて洋服を作ることを仕事としておられたおねえさんは自分のウェディングドレスも当然手作りをされ、結婚式当日にそのドレスを
着て披露宴の席で一人ひとりに挨拶をして回っておられました。
自分のような子供にもわざわざ膝を折って目の前に来て下さり「これからよろしくね」と、普段はそれほど化粧をしない人がその日ばかりはアイ
シャドーを入れた美しい姿で挨拶をしてくれたのを何故かしらよく覚えております。
そんなおねえさんは私が結婚した後も、妊娠したといえばマタニティドレスを作ってくれたり、ちょっとした小物を縫っては送って下さっており
ました。
ある時、若い頃の歌の話になり、PPMとか良く聴いてたよといわれ驚いたことがあります。
これ、今の方はご存じないでしょうけれどピーター・ポウル&マリーという60年代のアメリカのフォークグループです。
「パフ」とか「500マイルも離れて」等、もしかすると聞き覚えのある曲もあるのではとも思いますけれど。
ともあれ、その頃そのおねえさんがそんなアメリカの歌に興味があるとは思いもしなかったので余計に驚き、でもなんとなく気が合うのはそういう
こと?などと密かに嬉しくもなっておりました。

時は過ぎ、自分の父も11年前に他界し、継母も3年前に逝きました。
その間、その叔母、おねえさんはあれほど溌剌とされていたのにいつの間にか認知症の症状が出てきておられたようでした。
3年前の母の葬儀の折に久しぶりにおにいちゃんに会い、おねえさんのことを伺うと目が離せんし、今日もすぐ戻ってやらんとデイケアから帰って
くるしね、と葬儀後の駐車場で自分達兄弟と短い会話をし、じゃあねと別れたのでした。
思えばそれがこのおにいちゃんと話した最後の時で、それ以降は互いに連絡することもなく今に至っておりました。

昨日の電話、もしかすると介護がいると言われていたおねえさんが、と一瞬考えましたが実際には介護をしていた側のおにいちゃんが一足先に逝って
しまったようでした。

                           


                                          




今夕、つまり今の時点が通夜の時であり、出られれば出たいものの申すように足がない自分にしてみると、少しばかり距離のある葬儀会場へは
夜のうちに行くことはどうにも叶いません。
昨日も借り出したいつもの車屋さんに電話を入れ、明日の朝早くに貸し出させて頂く旨を伝え、同じ市内に住まう従姉妹のおねえちゃんとご一緒
することに致しました。
従姉妹にしてもやはり叔父に当たり、若い頃から仲の良かった同士ですし通夜は無理でも葬儀は出たいと考えられたのでした。
この従姉妹には他にも姉と弟、自分からすればおねえちゃん、おにいちゃんに当たる人達がおりますが、それぞれに年老いた伯母(今回の叔父の姉)
の介護やら、自分自身の身体の不調等によりこの度は従姉妹が代表して出ることになったということでした。
ウィークデイの朝早い時間、心して参りたいと思います。




                                     





                                     





                                      






夕方、はっきりしない曇り空の辺りにうっすらと肉眼ではかろうじて見えるほどの虹が出ておりました。
何とはなしに叔父、おにいちゃんがこの虹を渡って向こうの世界へ行くのかなぁ、それにしては心許ないようだけれど大丈夫かしら;と感じて
おりました。
無口だけれど、どこか飄々としたところのあったおにいちゃん、これくらいどうってことないよと口笛でも吹くように渡って行ったのかも
しれません。




                                         
                                      



少しばかり寂しい話題となりました。
今日のところはお目こぼし頂ければと存じます。


本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。
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息子のこと

2017-10-27 21:58:31 | 家族のこと
こんばんは。
朝晩はひんやりとしますが、日中は暑いくらいの陽気でもありました。
一昨日、また昨夜と綺麗な星空も見えておりましたね。
昴、プレアデスが昇り、それを追いかけるようにして大きなオリオンが見えてきます。
その星座の中の星雲、また星座を通しての別の薄っすらとした星も見えたりして、やはり空気が澄んで来ていることを思わせます。
とはいえ、またこの週末、台風が近づいてきているようですね。
先日も申しましたけれど、どうぞ避けて行ってくれることを願いたいものです。
そんな日の朝は、このようでした。
だんだんと日が出てくる位置が南の方へとずれてきているようですね。
遠くでは、また霧が出ているようでした。


                                 




                                 




                                 




                                 


昨日まで何日か続けて娘のことを書かせて頂きました。
ただ、これ以上続けても如何かな、とも考えておるのも正直なところです。
時系列に事実を述べてはきましたけれど。


娘の帰幽後、ほぼ一年後に息子が誕生いたしました。
娘のことがありましたので夫婦共に性別はどっちでもいい、とにかく元気で生まれて来てくてくれたらそれだけで構わない、そう考えておりました。
出産は前回のこともあり同じ総合病院にて、やはりこれも前と同じく周産期医療の連携という形で分娩室には産婦人科並びに小児科の医師が一緒に
集うということになっておりました。
今回は前日の夜からの陣痛を感じておりましたけれど一年前のこともあり、いわば自分で学習していた部分でもあるため、陣痛の間隔が短くなって
きたところで、一晩明けてから病院に向かいました。
分娩室の前に待機する部屋で、5分間隔になったらこのブザーで教えて下さいね、と助産師さんにいわれその方が退出してまもなく、いきなり陣痛
の間隔が狭まったようでした。
言われたようにブザーを押すことすらできぬ様な痛みに襲われ、次に先ほどの助産師さんが覘いたときには、あら、これすぐに分娩室ね、とあわて
ふためいた感じで隣の部屋へ移りました。
そこから正味、20分ほどだったのでしょうか、ともかくあっという間の出産で、これも前回同様立ち会うはずだった主人は、自分を連れてきて一度
帰宅したその間に既に出産し終わっておったという事になったのでした。
そのような感じでしたので、待機しているはずの小児科医は、これもまた間に合わず終い;。
とはいえ、今回息子が生まれたのはお昼の12時28分。
ちょうど日本全国、どこでもお昼の時間でもあり、件の小児科の先生はおそらく長丁場になるであろう?この出産に備え、お昼を食べている最中
だったようです。
今回は前の娘の時とは全く違い、取り上げるや否や大きな声の産声を上げ、その名のとおり真っ赤な赤ちゃんとして生まれて来てくれたのでした。
娘自身が出来なかった元気そのもので生まれて来ること、それを息子は自分の姉の分も含めてしてくれたのだと思います。
母親である自分が元より細い為、生まれた息子も2289グラムと非常に小さかったのもあり、一応規定として保育器に入れられました。
その間、彼の周りには様々な機器が取り付けられておりましたけれど、本人が元気に手足を動かすたびにそれらが外れ、モニター上では非常に
困った状態となっていたようです。
けれどそれは取りも直さず本人が元気という証拠でもあり、終いには余りにも甲高い元気な声で泣くために、周りにいる他の保育器に入っている
赤ちゃんの迷惑になるということで、息子の口には哺乳瓶用の乳首が絆創膏でもってペタッと貼られておりました;。
結局はその新生児集中治療室、NICUを3日間で追い出され(邪魔ですしね;)一般の赤ちゃんがおられる新生児室へと移されました。
何から何まで破天荒、しかし非常に元気な赤ん坊そのものでもあり、幾度も申すようですがお姉ちゃんの分もしっかり背負って出てきてくれたよう
でした。




                                 


どうにもここまで、娘と息子の出産にまつわる話で終始してしまいました;。
未だもって、最初の「龍」に関する事柄にまでたどり着けておりませんね。
ですけれど、娘と息子、この二人の子供の事をどうしてか詳らかにさせて頂くことで、これからまた何がしか新しい展開?となってくるのかもしれ
ない、そう自分に対して考えてもおります。
娘にしてみれば、生まれて来てもさほど考えてもらえていなかった事を母親に今一度自覚してほしい、そう思ってあちらの世界から働きかけてきた
のかもしれません。
皆様に聞いて頂くというよりも、自分に対して納得させるため、こうして書かせて頂いたという方が正しいのかもしれません。
それでもこのようにして、暗いところへ押し込められていた娘の事を明るい場所に引っ張り出して来られて良かった、そうも思います。



                                 


こんな感じの話にずっとお付き合い頂きましたこと、本当に有難うございます。
また改めて龍についての事柄を今一度取り上げさせて頂きたいと思っております。
その際は、また宜しくお願い申し上げます。

 
コメント (2)
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娘のこと 続き 4

2017-10-26 22:02:50 | 家族のこと
こんばんは。
今日は朝から一日よいお天気に恵まれましたね、どうやら全国的にそうだったようです。
最近にしては全国で、というのも珍しい気がします、それほど北から南の間で気候がかなり違っていたということなのですね。
とはいえ週末、またしても台風が近づくとか。
もういい加減にしてほしいところです。
意識の中で、此方へ来るな、と念じてみましょうか、多少は逸れてくれるかもしれませんよ。
そんな朝は快晴で始まりました。
遠く、といっても此処から見てですのでおそらく深川(ふかわ)辺りで霧が発生していたのかもしれません。



                                   




                                   




                                   




                                 
                                   


まぁ、何枚も同じような写真を載せることもないんですけれど;。




娘の話を綴りながら、自分でも書いていて半分こみ上げてきそうな思いと、その半分は冷静にこのことを文章にしなくては伝わらないという思いが
交錯しております。
20数年、正確にはもし娘がおれば今27歳ですので、この年月を経てようやっと自身のこととはいえ客観的に捉えられるようになっていきたと
言えるのかもしれません。
これまでこの経験を心の中で反芻しなぞるような思いはあったにせよ、己一人の中に仕舞い込んで、ともすれば忘れ去った記憶の中のこととして
押し込めてきていたようにも、今改めて感じております。
ですけれど、こうして曲がりなりにも文章に起こさせて頂き、皆様の前でさらけ出させて頂くような機会を得て、ようやっと先に帰幽した娘とまと
もに対面しておるのかもしれません。
この世に生を受け、たとえ十数時間という短い間であったにせよ、娘が生まれて来てくれたことは間違いのない事実です。
今一度、当時の記憶を思い起こして、もうしばらく書かせて頂きたいと存じます。




                                   




赤ちゃんはいわれるように真っ赤になって泣くことからその名が付いたといわれておりますけれど、生まれてきた娘は申すように泣くことすら
出来なかった訳ですが、そのような症状の子であるにも関わらず、親がいうのもおかしな話かもしれませんが、顔つきが既に大人の女性の顔を
していたように思います。
生まれてくる前から、もうこの短い人生というのを理解して、その上でこのような姿、顔を持ってたまさかの光を浴びるために出てきてくれた
のかもしれません。

主人自身、この子のこの世での生きた時間、滞在時間はわずか10数時間であったとはいえ、こうして日の光を浴びたということは紛れもなく
生を受けたことには違いない、だから悲しいけれど、ありがとうと言って送ってやろう、そう申しておりました。
普通、このような場合は当事者は喪主となりどなたかに葬儀をして頂くのが本来ですけれど、神主である主人が自分自らがこの子の為にしてやると
いって、自宅にて葬儀を致したようです。
その間、自分はまだまだ病院で臥せっており、葬儀の事も後にその詳細を知ったような次第でした。
主人がその後話したことによると、自分で我が子の葬儀などするもんではない、泣けてしまって祭文(さいもん、祝詞ではなく葬儀ですのでこの
ように称します、仏教でいわれるところのお経をあげる、読経されるのと同等の意味合いかと存じます)が上げられなかったと言う事でした。
それでもなんとか葬儀を済ませて、後に役所へ出生届と死亡届を同時に提出した時には、係りの方がなんともいえぬ顔をしておられたとも話して
おりました。
出産後のバタバタは、少し違った形でそうであったと言えるかもしれませんね。


自分の方はといえば出産、そうしてその直後に子供が亡くなったということで、それまでは6人部屋でしたけれど、病院側の計らいで個室となり
ました。
6人というと今では信じられないかもしれませんが、当時は産婦人科でも大部屋はすべてその人数でして、今現在を存じませんのでどの位の方が
同室となるのか検討もつかないのですけれど。
ともあれ、赤ちゃんが生まれて家族に囲まれ楽しい雰囲気であろう中に、自分のような者が居てはお互い気まずかろうとの考えだったようです。
確かに一人で考える時間はその部屋では大いにありましたが、反面そのことばかりを思いあぐね、話し相手もいない部屋にじっといることの方が
ある意味辛かったようにも覚えております。

出産後は精神的なこともあったのかどうにも体力が回復せず、先に書きました、頭を打った時にお世話になったご夫婦の所へ整体をして頂きに退
院後は通いました。
そのお宅はマンションで、下に車を停めてエレベータで部屋まで上がるのですが、その少しの距離を歩くのが身体がまるで雲の上を歩くようにふわ
ふわとし、自分自身の実体がないように感じておりました。
出産したとはいえ既に子供はおりませんが、おっぱいはどうしても張ってくるため、それを止める薬を処方されておりました。
早く止めた方が次の妊娠をしやすくなると言われたようにも思いますが、その事も少し悲しい思いもしておりました。
そんな、心身共に疲れ切っていた自分でしたけれど、そのような自分を殊更に慰めるでもなく、ごく普通に接して下さったそのお二人の優しさが
余計に沁みる思いでした。                                   

自宅では仏教でいうところの四十九日にあたる五十日祭までの期間、娘の為の小さな祭壇を設け日々祈っておりました。
十日毎に、これも祭りを行い、この時は主人が祭文を奏上してくれました。
その間、二ヶ月程、前に述べたようにまだどこか身体も心もフワフワしたような感覚が抜けず、ただ毎日を娘の小さな遺骨に手を合わせていたよう
に思います。
五十日祭をなんとか済ませた後、いわば納骨したのですけれど、墓は出雲にあり、骨の一部、ほんの少しをよくは覚えておりませんけれど、稲佐の
浜であったか他所であったかで散骨したような記憶がうっすらとあります。
ただし、本当にそうしたのか、これも申すようにどうにも自分がしっかりしていなかった時期のことでもあり、その記憶も曖昧です。
それでも何とか一連の為すべきことを一通り終わって、自分も夢うつつなようだった状態から抜け出したように感じております。
 




                                   



娘の事を書いていると、いつの間にか自分の事になってしまっておりました。
あの頃の記憶を辿ると、どうしてかそこへ行き着き、外せないようにも感じます。
この分だとどうやらこの週末までこの話が続く事になりそうです;。
どのように決着がつくのか、皆目自分でもわかりませんけれど、娘との覚束ない記憶を思い起こしながら、今しばらく続けさせて頂こうと思います。




                                  



少し重苦しくなってきておりますけれど;;。
それでもお付き合い頂きました皆様、いつも有難うございます。
感謝申し上げます。                                     
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