日々徒然なるままに

日々感じたことを書いていきます、よろしくお願いします

原爆の日に寄せて その二

2017-08-08 22:03:25 | 原爆の日に寄せて
こんばんは。
台風一過、昨日は爽やかに空気も澄んでいましたが、今日は少しくぐもった感じでした。
それでも昨夜はこの辺り、綺麗に晴れ渡り夜中には部分月食が見えておりました。
夜中も夜中、午前二時を回ってから始まりだしたようでしたが、偶然にもその時間に目が覚めて(いや、ほんと;)ついパシャッと一枚だけ撮り
すぐまた寝ておりました。
最近、ふと、という感じで夜中にパッと目が覚めることがあるのですが、これってもしかして単なる歳のせいでしょうかね;。
そんな翌朝、今朝はこちら。
お日さま、カンカンでしたよ。

                                   

と、その部分月食が此方。
とはいえ、やはりこの携帯ではこれが精一杯、どこが欠けてるかさっぱりですけれど、左下部分が少し欠ける月食でした。


                                   

先日、まだ書き足りないことがあると申しておりました事、「あの日」に繋がる自分の記憶の一片をお伝え出来ればと思います。
そのことについての写真を以前、自分で撮った記憶があるのですけれど、この携帯、ガラケーの中を探しましたが見当たりません。
見直しても今は出て来そうになく、後日わかった時点で改めて載させて頂きたく存じます。
申し訳ございません。

原爆が落ちて焼け野原となった市内でもかろうじて残った建物があったとされております。
日本銀行の旧広島支店と百貨店の福屋という建物です。
石造りの堅牢なそれらの建物は、あの爆風にもかろうじて耐え抜いたのでした。

日本銀行の方のそれは、今は様々なアート作品等を展示するスペースとして広く市民に開放されております。
作家さんたちの展示が行われたり、大学の芸術学部の卒業制作展の発表があったり、と様々に活用されております。
そのような展示がない時でも、自由に内部は見学出来るようになっております。
自分が、そんな場所へ足を運んだのはそんな大学の卒業制作の展示を見に行ったのが最初でした。
建物の中の色々なスペースを使い、思い思いの展示がしてあり、結構な見ごたえがあるものでした。
展示の場所は、元銀行だけあり以前はおそらく一般には入れなかったであろう地下の部屋であるとか、金庫の横の何を収納していたのか、日の当た
らない部屋などもあり、それらを見るだけでも知らない世界を覗くようで、楽しい気分を味わっておりました。
そのような展示をしているスペースとは別に、全く何も展示されていない部屋も幾つかありました。
展示がないというよりも、以前銀行として使われていた当時のままを殆どそのまま残しているような場所です。
その中の一つに支店長室がありました。
さすがに当時使われていたであろう調度品等は置いてなかったように思いますが、部屋の設えは当時のままで、窓枠や天井の高さなど、庶民の自分
からすると、それだけで圧倒されてしまいそうな重厚感のある部屋でした。
その部屋の装飾にはふんだんに木も使われているのですが、その木の何箇所かに小さな傷がありました。
よく見ると、ガラスの刺さった後のようでした。
それは、あの日爆心地から何百メートルも離れていないその銀行にも爆風がおよび、窓のガラスが瞬時に割れ、その破片が突き刺さったもののよう
でした。
磨き上げられたその木のそこかしこに、そのような小さな傷がいくつかあるのを目にした時、不意にこみ上げて来るものがありました。
たとえ何十年経とうとも、この場所は物言わぬけれど、こうして今でもあの時の記憶を此処に静かに留めているのだな、そう思うと何ともいえぬ
気持ちになり、誰もいないのを幸いに一人涙ぐんでしまっておりました。
言葉は決して発しない、けれどあの時の証は此処にこうして今でもあるんだよ、そんな風にその部屋自体が伝えて来ているような気がして、何とも
言い表せない思いが心の中でわいてきておりました。
今しがた、すぐ下の階では若者たちが自由に創造し且つ想像力を膨らませ、自分たちのイメージした形を表現したアート作品を見てきたばかりです。
今の時間を生きて、自由な発想で物を作り人々を楽しませてくれている若者達、しかしその何十年前のこの場所は、あの日あの時は想像すら及びも
しない地獄絵図ともいえる空間に変わり果てていた。
そう思うと、平和のこの時をごく当たり前に享受して今を生きている自分達が、なんと平穏なのだろう、安心安全がごく普通にあるのが当然と
考えている自分達が、どれほど平和で居られる現在なのだろう、そう感じ、余計に胸が熱くなる気がしたのでした。
そしてまた、そのように居られる自分達を有難うございます、このように穏やかで平安で居られていることを有難うございます、と誰にいうとも
なく心の中でつぶやいておりました。

                                 

その日銀の建物であったか、入り口の階段に人影がそのまま残っている石段があったと記憶しております。
今現在、その石段は原爆資料館に収められているかと思います。
黒い人影がそのまま焼きついたその石は、あの朝一瞬にして、そこにいた人がそのような形でしか残らなかった証拠でもあります。 
小学校の頃のことであったか、その石段については、当時を語る物になるとして資料館に収蔵されるとニュースで聞いた覚えがあります。 
その昔のこととてあまり定かではありませんけれど、そのようなことであったかと思います。
小学生よりもっと幼い頃、呉に住んでいた自分は、母に連れられてか、よく広島の叔母の家に遊びに行っていた記憶があります。 
紙屋町といわれる広島では繁華街のその辺りは、今でもそうですけれど、路面電車が行き交い賑やかな場所です。
交差点の四隅には重厚な石造りの銀行を中心とした建物が立ち並んでいたように思います。
そのような場所で、わずか二十年にも満たない以前に、あの日の事があったのでした。  


福屋という百貨店は、その当時は郵便局だったと聞いた気もします。
此処の部分は、定かではありませんので、間違っておりましたら申し訳ございません。
その建物の中で働いていて被爆したという方がおられました。
あの日、一瞬、眩い光がしたかと思うとあまりの爆音にしばらくは耳が聞こえなかったと言われました。
気がつくと床に倒れており、ものすごい土煙で当分何も見えなかったともいいます。
まだ建物の中に居たから助かったと話しておられましたが、どのようにしてそこから抜け出せたのか、気づくと外へ出ており、辺りは火の海に
なっていたといいます。
わけもわからず逃げ惑う人々、というよりも何か正体のわからぬ者が大勢周りにおり、皆どこかへ歩いていっていたといいます。
その方自身、自分の家のあった郊外まで、どのようにして戻ったか、これもまた覚えていないといわれます。
なんとか辿り着いたけれど、自分自身もかなりの傷をおっておられたようで家族の者が驚いていたと言われました。


                                     


自分が感じたあの日のこと、人から聞いたあの日の記憶、まだ頭のどこかに「あの日」に繋がる記憶はあるかと思います。
またいつか思い出したなら、書かせて頂ければと存じます。

明日は長崎に原子爆弾が投下された日です。
刻には手を合わせたいと思います。


本日もこのブログへお越しくださいまして、有難うございました。
感謝申し上げます。
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原爆の日に寄せて

2017-08-06 22:15:22 | 原爆の日に寄せて
こんばんは。
朝から昼にかけては昨日以上に暑くなってきておりましたが、午後三時を回った頃に、台風の影響か天気雨のようにバラバラと降ってきておりました。
それまで異常に暑かったのが、雨のおかげか随分と凌ぎやすくなりましたね。
室内のむわぁっとした感じが少し収まった感じです。
夜半から明日にかけてはかなりの雨となるようです。
そんな日の朝はこちら。
朝日だけは、もうこれでもか的に輝いていますね。

                                   

今日八月六日また九日は、七十二年前に人類史上初めて地上に原子爆弾が投下された日です。
毎年、この日は朝から日が容赦なく照りつける暑い日のことが多く、今年も例外ではありませんでした。
明け方前から数多の人々が慰霊碑の前に手を合わせに行かれるようで、蝉時雨も始まる随分前、お年を召した方の姿が多く見受けられたようでした。
式典が始まると、高く昇った太陽が容赦なく参列した人たちを照りつけますが、毎年日射しが強くなってきており、今年はテントが用意されていた
ようです。
多くの国が参列する式典でもあり、平和というものをここから発信していかねばという気概の元に開催されておりますが、市井の人々はごくごく
当たり前にあの日の犠牲者に祈りを捧げる日として静かに手を合わせるばかりです。
自分自身は、毎年、八時十五分に市内どこへいても鳴らされるサイレンの音やお寺の鐘の音と共に犠牲となられた方々への黙祷を捧げます。
普段は大概ウィークデイでもあり、また通勤時間に重なる時にもあたり、全ての人がそう出来るわけではないでしょうけれど、不思議と気持ちは
そのことに向いている気がします。
いつぞやは、やはりたまたま日曜日にあたり、その日自分は呉に向けて出掛けようとしているところでした。
電車のホームで出発を待っている間に、八時十五分の時刻を知らせるサイレンが鳴り響き、思わずその場で手を合わせたのを覚えております。
厳粛な気持ちを抱きながらも、自分達の日常に当たり前に組み込まれている祈りの時間のようにも思います。

                                    
 

この仕事、いわば神主としての仕事の中で、幾度か原爆の犠牲者になられた身内のことを探してほしいといわれたことがありました。 
あの日、依頼者の方のお母さんが市内で亡くなられたというのは、親戚の人に聞いたりしてわかったけれど、どこで亡くなったのか場所もわか
らず遺骨もないということでした。  
それで、その依頼者の方とおおよそこのあたりかもしれないということろまで一緒に参り、自分の気持ちを集中させてその方のお母さんの御霊は
どこにおられるのだろう、と目を閉じて感じてみることにしました。 
戦後何十年も経ち街中はどこも大きなビルが立ち並んでいます。
そんな一角の、ビルとビルの狭間、人一人そこを通れるかどうかというくらいの隙間にその方のお母さんの御霊、気配を感じました。
自分でもまさかと思いましたけれど、八月のあの日、おそらく辺りは焼け野原となっていたのでしょうし、自分が此処だと感じた場所は京橋川と
よばれる川からさほど遠くない地点でもありました。
あの日、お母さんは幼かった依頼者の方を自分の親戚の方に託し、何がしかの用事でその辺りまで出向いておられ、あの日のあの時刻にその場所で
息絶えたのでした。                           
申したように、今はビルが建ち、その場所へ近づくことすら出来ません。
仮にその場所へ行くことが出来たとしても、とてもそこへ遺骨が残っているとは思えず、御霊、魂としての思い、念だけがそこへいつまでも留まって
おられたのだと思います。
主人と共にその方にその旨をお話しすると
「それがわかっただけでも嬉しい。これで本当に母がいたという確信が持てました」
とおっしゃり、深く頭を下げられたのでした。
その後、そのお母さんの御霊を御霊代(みたましろ)にお移しし、ご自宅にて改めてお祀りして頂きました。


これはお身内ではなく、偶然にもその場所で犠牲になられた御霊がわかったということがありました。
依頼者の方は繁華街でスナックを経営されておられたのですが、最近どうにもお客さんも減り、なんとかならないかとのご相談でした。
最初にそのお店に一歩足を踏み入れた途端、自分の口から思わず大祓いという祓いの言葉が口をついて出て来、慌ててその後を主人が一緒になって
唱えるということがありました。
自分でもそのようなことは初めてでしたが、その時に感じたのが、その場所で八月のあの日、若いお母さんが赤ちゃんを抱っこし高い高いとあやし
ている様が見て取れました。
ですが、そのように赤ちゃんをあやしたその瞬間、途方もない閃光と共に、そのお母さんと赤ちゃんは一瞬のうちに身体を焼き尽くされ、二人諸共
姿が消えてしまっていたのでした。
そのお店の経営者である依頼者さんとは全く縁もゆかりもないお二人です。
ですけれど、このようなお姿が見えて思わず自分が大祓いを唱えたということを説明すると、
「なんとなく、お客さんがおられん時でも不意に人の気配を感じることがあったんよね。もしかするとそういうことじゃったんかね」
とさほど訝しむ風もなく納得されました。
その方はその御霊をご縁はないけれど、弔うつもりで手を合わさせてもらいますとおっしゃいました。
(他にもお客さんの減った理由はありましたが、それについてはまた後日改めさせて頂きます)

                                   


書いているうちに、また色々と思い出してきたことがあります。
あの日の記憶に繋がることがこれほどに出てくるとは自分でも思いませんでしたけれど、以前にも申したように自分が覚えている間に書かせて
頂いておこうと思います。
書いたとて何があるわけでもありませんが、しかし書くことにより何かを感じたり考えたりして頂けるきっかけになれば、と思います。
重い話ばかりかと思いますけれど、しばらくお付き合い下さいませ。


                                    


これから徐々に台風が近づくのでしょうか。
あまり酷くならないことを願うばかりです。


本日もこのブログへのお付き合い、有難うございました。


                                     
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