旅つづり日々つづり2

旅のような日常と、日常のような旅の記録と記憶。

0歳はゼロではないよ

2016年05月26日 10時17分46秒 | 日々のこと
つばさが眠っている顔をみていると、妊娠中にエコーで見たのと同じ顔をしている。
当たり前といえば当たり前だけれど、その寝顔を見ていると「お腹の中でもこうやって
眠っていたんだなー、あの時も、あの時も。」と妊娠中の日常がよみがえる。

誕生がゼロなのではなく、目には見えないけれど、抱っこすることはできないけれど、
確かに確かにお腹の中で“生きて”いたトツキトオカの時間。
自分で大きくなって、光を感じて、音を感じて、月が満ちたらでてきたんだね。

お腹の中にいた時間はゼロではないし、誕生と同時に始まるのは育児であって、
赤ちゃんはその前からうんとがんばっていたんだな。

産まれる命、お腹の中で終わってしまう命、
どんなに言葉を紡いでも足りない「命」の現場がお産だと3回目にしてようやく分かった。

陣痛がピークに達してから出産まで、助産師さんたちが3人ほど私の周りを囲んでいて
痛みで記憶が途切れる中「あー、お産は女のものなんだな」と妙に冷静に感動したのを
覚えている。本当に痛くて、自分でも聞いたことのないドスの聞いた声とか勝手にでてくるし、
身体からいろんなもの垂れ流しだし、だいたいパンツとかはいてないし、助産師さんはなんの
ためらいもなく私の股に手を突っ込んでくるし、日常ではあり得ないことばかり。

どれだけ文明が発達しても、3Dの機械が開発されたとしても、人間はこんなにみっともなくしか
産まれることができない。ちっともスマートなんかじゃない。わめいて、さけんで、さらけだして、
かっこ悪いことこのうえない。「これが男にできるかー!ボケッ!」「こんな痛いのに、絶対に
勝手に殺させたりせえへんからな、覚えとけよ!(誰に言うてるんやろうか?)」とか
痛みのあまりものすごい怒りが湧いてきたことも忘れないでおこうと思う。

左手はずっとダンナ氏の手を握りしめて(握りつぶして)いたはずなのだけど、今回はそれすら
忘れかけるほど痛かった。赤ちゃんがでてきてからしばらくしてハッと左を見ると、いつもの
淡々としたダンナ氏がいて、ほんの数分前までの修羅場と、この静かな時間とのギャップが
恥ずかしくてへへへーと笑ってごまかしておいた。なんか気の利いた言葉とかあるかなーと
思ったけどそんなものはやっぱりなくてゴシゴシっと頭をなでられただけだった。でもその時
「あー、生きて終わったな。」と深く安堵した。みんな生きてる。それだけでよかった。
やっていける。と思った。