その43は昔を語る 国分寺跡です。
国分寺跡は前橋市元総社地区と高崎市(旧群馬町東国分)の境にあります。
国分寺は奈良時代の中頃、聖武天皇の命により全国に建てられました。僧寺と尼寺があり国分二寺ともいいます。
群馬では関越自動車道をはさんで東に尼寺、西に僧寺の跡があります。
僧寺は昭和55年から発掘調査が行われ、現在、その成果にもとづいて南面の築垣=ついがき=土をつき固めた塀や
塔・金堂の基壇が復元されて、史跡公園とする工事が進んでいます。
尼寺は畑になっていて、地表面からその跡を知ることはできません。
当時、上野国分僧寺には高さ60mもある七重塔がそびえ、金堂、講堂、中門、南大門など、
多くの建物が、方約200mの築垣に囲まれる範囲に建ち並んでいました。
さらにその周囲には寺院活動を支える諸施設が作られましたので、国分寺の範囲はかなり広大なものでした。
遺跡からは県内各地で作られた瓦が大量に出土しています。その建設工事は上野国の国をあげての事業であり、
その維持・修理にも多大の労力が費やされていたことが分かります。
僧寺は文献資料や発掘調査の結果、平安時代の後期には衰退・廃絶してしまったことが判明しています。
寺として続いていたのは、わずか300年間程度でした。
しかし、今でもこの国分寺跡に立つと当時の壮大な光景が目に浮かび、私は思わず身震いしてしまいました。
一名でも、快くご案内して下さるガイドの方がおられます。お近くでしたら是非一度お出掛け下さい。
前橋市は平成16年12月5日、大胡町・宮城村・粕川村と平成の大合併をし、
平成19年1月31日現在、総人口 324,644人となり、さらなる飛躍を続けています。
多分、近い将来富士見村とも合併することになるでしょう。
広域前橋をもっとご紹介したいと思いますが、この前橋探訪は、「その43」をもって終了とします。
ご協力いただいた方々、有難うございました。
また、長らくアクセスしていただきまして、有難うございました。
季節も変わり、これからは花・蝶・鳥・風・月を中心にお届けします。
腰痛も治らず、本当のところ少しくたびれました。
これからも、どうぞよろしくお願い申し上げます。
1、上野国分僧寺、鳥瞰図
2、高さ60.5mもあった七重塔模型
3、上野国分寺趾石柱と後方は七重塔基壇
4、手前金堂基壇、遠方築垣(ついがき)
5、復元された築垣(ついがき)=版築という、柱と柱の間に堰(せき)板を渡し、
その中に土を15cmの厚さに敷き詰め、それが半分になるまで棒で突き固める工法で造られました。
この土の層を35段積み上げて造られました。
6、上野国各地で作られた瓦が大量に出土しています。この写真では分かりませんが、瓦には文字瓦があります。
当時各郡単位の負担によって国分寺の建立が進められたことを表しています。
国分寺跡は前橋市元総社地区と高崎市(旧群馬町東国分)の境にあります。
国分寺は奈良時代の中頃、聖武天皇の命により全国に建てられました。僧寺と尼寺があり国分二寺ともいいます。
群馬では関越自動車道をはさんで東に尼寺、西に僧寺の跡があります。
僧寺は昭和55年から発掘調査が行われ、現在、その成果にもとづいて南面の築垣=ついがき=土をつき固めた塀や
塔・金堂の基壇が復元されて、史跡公園とする工事が進んでいます。
尼寺は畑になっていて、地表面からその跡を知ることはできません。
当時、上野国分僧寺には高さ60mもある七重塔がそびえ、金堂、講堂、中門、南大門など、
多くの建物が、方約200mの築垣に囲まれる範囲に建ち並んでいました。
さらにその周囲には寺院活動を支える諸施設が作られましたので、国分寺の範囲はかなり広大なものでした。
遺跡からは県内各地で作られた瓦が大量に出土しています。その建設工事は上野国の国をあげての事業であり、
その維持・修理にも多大の労力が費やされていたことが分かります。
僧寺は文献資料や発掘調査の結果、平安時代の後期には衰退・廃絶してしまったことが判明しています。
寺として続いていたのは、わずか300年間程度でした。
しかし、今でもこの国分寺跡に立つと当時の壮大な光景が目に浮かび、私は思わず身震いしてしまいました。
一名でも、快くご案内して下さるガイドの方がおられます。お近くでしたら是非一度お出掛け下さい。
前橋市は平成16年12月5日、大胡町・宮城村・粕川村と平成の大合併をし、
平成19年1月31日現在、総人口 324,644人となり、さらなる飛躍を続けています。
多分、近い将来富士見村とも合併することになるでしょう。
広域前橋をもっとご紹介したいと思いますが、この前橋探訪は、「その43」をもって終了とします。
ご協力いただいた方々、有難うございました。
また、長らくアクセスしていただきまして、有難うございました。
季節も変わり、これからは花・蝶・鳥・風・月を中心にお届けします。
腰痛も治らず、本当のところ少しくたびれました。
これからも、どうぞよろしくお願い申し上げます。
1、上野国分僧寺、鳥瞰図
2、高さ60.5mもあった七重塔模型
3、上野国分寺趾石柱と後方は七重塔基壇
4、手前金堂基壇、遠方築垣(ついがき)
5、復元された築垣(ついがき)=版築という、柱と柱の間に堰(せき)板を渡し、
その中に土を15cmの厚さに敷き詰め、それが半分になるまで棒で突き固める工法で造られました。
この土の層を35段積み上げて造られました。
6、上野国各地で作られた瓦が大量に出土しています。この写真では分かりませんが、瓦には文字瓦があります。
当時各郡単位の負担によって国分寺の建立が進められたことを表しています。