その22は飢饉、凶作 郷蔵造りです。
天明の大飢饉以降、幕府は貯穀令を発し、村々に郷蔵を建てるように命じました。
郷蔵は、もともとは村の年貢米を保管したり、凶作(作物ができない年)に備えて、
米や麦などの穀物を貯蔵しておく村の共同倉庫です。
上泉郷蔵は県内では最も古く、寛政8年(1796年)に創建された土蔵で、現在は瓦葺荒壁塗りです。
郷蔵は、県内各地に造られましたが、現在残っているものは少なく、
他に桐原郷蔵、北橘郷蔵、片品郷蔵があるだけです。
全国各地にあった郷蔵は明治になってその目的を終わり、
売却されて取り壊されたり、学制が始まり教室として使われた所もありました。
上泉郷蔵は、本来の目的を貫き、明治42年まで存続しました。
そのため、関係古文書が多く残されています。
ちなみに、上泉郷蔵は剣聖上泉伊勢守ゆかりの上泉城跡地にあります。
天明の大飢饉以降、幕府は貯穀令を発し、村々に郷蔵を建てるように命じました。
郷蔵は、もともとは村の年貢米を保管したり、凶作(作物ができない年)に備えて、
米や麦などの穀物を貯蔵しておく村の共同倉庫です。
上泉郷蔵は県内では最も古く、寛政8年(1796年)に創建された土蔵で、現在は瓦葺荒壁塗りです。
郷蔵は、県内各地に造られましたが、現在残っているものは少なく、
他に桐原郷蔵、北橘郷蔵、片品郷蔵があるだけです。
全国各地にあった郷蔵は明治になってその目的を終わり、
売却されて取り壊されたり、学制が始まり教室として使われた所もありました。
上泉郷蔵は、本来の目的を貫き、明治42年まで存続しました。
そのため、関係古文書が多く残されています。
ちなみに、上泉郷蔵は剣聖上泉伊勢守ゆかりの上泉城跡地にあります。