上毛カルタ、今日はけです。
県都前橋生糸(いと)の町・・・群馬県の県庁所在地、前橋はその昔厩橋と言われていました。平成16年12月5日に大胡町・宮城村・粕川村と合併し、平成18年1月31日現在、人口320,314人となりました。
前橋の主産業の製糸は安政6年の横浜開港と藩主松平氏の奨励により盛んとなり、第二次大戦まで日本の製糸の中心「糸のまち」としての地位を保ち、今日の前橋市発展の礎となりましたが、昭和20年8月5日の空襲で中心市街地と共に焼失しました。戦後、復興の旗手として再生したものの、着物離れや化学繊維・安い輸入品に押されて斜陽化が加速、昭和40年代より生産は激減し、工場の廃業が相次ぐようになりました。郡是、交水社(丸交)、丸ト、丸六、金古、山一、丸大など懐かしい製糸工場がありましたね。どこにでもあった、あの桑畑が、今は探さなければ見つからないのです。
先人の遺産を継承し「水と緑と詩のまち」として、前橋は健康で快適な都市を目指しています。
前橋市街中心部を望む、右端の高い建物は市役所です。
写真左から
1、広瀬川、厩橋たもとの前橋残影の碑、座繰りをする女性と繭玉のモニュメント
2、住吉町、日本最初の藩営機械製糸場跡碑、富岡製糸より2年前に設立
3、敷島公園内、蚕糸記念館=旧農商務省原蚕種製造所建物 注)3月末まで閉館です。
県都前橋生糸(いと)の町・・・群馬県の県庁所在地、前橋はその昔厩橋と言われていました。平成16年12月5日に大胡町・宮城村・粕川村と合併し、平成18年1月31日現在、人口320,314人となりました。
前橋の主産業の製糸は安政6年の横浜開港と藩主松平氏の奨励により盛んとなり、第二次大戦まで日本の製糸の中心「糸のまち」としての地位を保ち、今日の前橋市発展の礎となりましたが、昭和20年8月5日の空襲で中心市街地と共に焼失しました。戦後、復興の旗手として再生したものの、着物離れや化学繊維・安い輸入品に押されて斜陽化が加速、昭和40年代より生産は激減し、工場の廃業が相次ぐようになりました。郡是、交水社(丸交)、丸ト、丸六、金古、山一、丸大など懐かしい製糸工場がありましたね。どこにでもあった、あの桑畑が、今は探さなければ見つからないのです。
先人の遺産を継承し「水と緑と詩のまち」として、前橋は健康で快適な都市を目指しています。
前橋市街中心部を望む、右端の高い建物は市役所です。
写真左から
1、広瀬川、厩橋たもとの前橋残影の碑、座繰りをする女性と繭玉のモニュメント
2、住吉町、日本最初の藩営機械製糸場跡碑、富岡製糸より2年前に設立
3、敷島公園内、蚕糸記念館=旧農商務省原蚕種製造所建物 注)3月末まで閉館です。