上毛カルタ、今日はぬです。
沼田城下の塩原太助・・・沼田市は利根郡の中心都市で、新治村は沼田市の北西に位置します。新治村は平成17年10月1日、水上町・月夜野町と合併し「みなかみ町」となりました。塩原太助は寛保3年(1743)に新治村の下新田に生まれました。塩原家の先祖は武士であったようですが、その後下新田に土着して農業を営み、代々名主をつとめました。19才の秋、今でいう家出をし、江戸で炭問屋、山口屋善右衛門に救われ、艱難辛苦、勤勉努力して豪商塩原太助となり、ついには公儀のお金御用を勤める身分にまでなりました。晩年、各地で種々の公共事業に巨費を投じ、慈善の諸美徳を顕現したことは、今も尚、巷間の敬慕の的となっています。沼田城下とは昔、藩主の支配下にあった地域という意味でしょうか?家出の折、愛馬「あお」との別れは講談や芝居で有名ですが、高山村に「馬つなぎの松」、旧白沢村に「別れの松」があるのはどうしてでしょうか?こういうことはあまり深く考えないことにします。それにしても、太助の爪の垢を煎じて飲んでもらいたい人がたくさんいますねー。
塩原太助記念公園、近くには生家があり太助の子孫が住んでいます。
沼田城址の鐘楼と城址から月夜野、新治方面を望む
沼田城下の塩原太助・・・沼田市は利根郡の中心都市で、新治村は沼田市の北西に位置します。新治村は平成17年10月1日、水上町・月夜野町と合併し「みなかみ町」となりました。塩原太助は寛保3年(1743)に新治村の下新田に生まれました。塩原家の先祖は武士であったようですが、その後下新田に土着して農業を営み、代々名主をつとめました。19才の秋、今でいう家出をし、江戸で炭問屋、山口屋善右衛門に救われ、艱難辛苦、勤勉努力して豪商塩原太助となり、ついには公儀のお金御用を勤める身分にまでなりました。晩年、各地で種々の公共事業に巨費を投じ、慈善の諸美徳を顕現したことは、今も尚、巷間の敬慕の的となっています。沼田城下とは昔、藩主の支配下にあった地域という意味でしょうか?家出の折、愛馬「あお」との別れは講談や芝居で有名ですが、高山村に「馬つなぎの松」、旧白沢村に「別れの松」があるのはどうしてでしょうか?こういうことはあまり深く考えないことにします。それにしても、太助の爪の垢を煎じて飲んでもらいたい人がたくさんいますねー。
塩原太助記念公園、近くには生家があり太助の子孫が住んでいます。
沼田城址の鐘楼と城址から月夜野、新治方面を望む