日照りの真夏、大雨の日があった。
生姜に水やりをしてきて、恵みの雨だった。
また、日照りがもどった。
「さぞ、この雨で生姜も生き生きと葉を伸ばしているだろう」と
はたけに見に行った。
はて、ところが、生姜の葉が消えている。
畝だけが、目にはいる。「???」
虫にやられた?
植わっていたところを掘ってみる。生姜の根が見当たらない。
次も、つぎも・・・
「虫ではないだろう。だれか、人が引き抜いていったみたい・・・」
いつもアドバイスをもらっていた幸枝さんがこころに浮かぶ。
5月に植えた、この生姜、幸枝さんに何回も電話で助言をもらい、
ときには防虫剤や追肥用鶏糞までもらった。
「あんた、水やりしているか?」とついこの間、電話をもらった。
じぶんが育てているというより、幸枝さんとのコラボの生姜。
「消えたしまった!」
残念だ。
生姜は、はたけ公園の南側の道沿いにある。
街の人の散歩コースだ。
水路をひょいと跨げば、すぐはたけの畝に入れる。
素人野菜集団”ベジタブルコミュニテイ・クラブ”の寄り合いが
数日後にあった。
”まちのはたけ公園”とじぶんたちで言い出して、初めてから2年目。
「そろそろ、”公園”というところ、描きながら、あらわしていきたいな」と
いろいろ、意見や案がでた。
はたけ公園の南側は、紫陽花で生垣をつくりたいね。
「そうよ、途中までは、出来てるんだから、南側はそれでやりたいね」
果たして、だれがやることになるか、分からないところもある。
でも、公園として、親しい隣人、地域社会の人たちの憩いの
場として、あらわれてくるのがいいなあ。
消えた生姜は、来年の春、またチャレンジしてみよう、っと。
(みやち)
しかし、「来年の春、またチャレンジしてみようっと」いう言葉に救われます。
公園になりますと、入って来た人が、悪意がなくても、“見事なナスだ”、“おいしそうなトマトだ”と思わず手を出してしまうことも起るかもしれません。
私は、次のようなことを思い出しました。それは、今から50年以上前の学生時代のことです。学生寮の近くにはミカン畑が沢山ありました。柵もなく入ろうと思えば自由でした。当然ミカンを取って口に入れることも何回もありました。ミカン畑の持ち主は、枝を折るとか、食べ散らすとかしなければ、大目に見てくれる良き時代でした。
これから考えられる公園も、柵を設けたり、設けなかったりするのは栽培者の考え方次第だと思いますが、多少甘い管理状態が公園の場合望ましいように思いますが如何でしょうか? その程度が難しいのでしょうが・・・・。
公園内と外の区分けは形にもしておきたいと思っています。
花や花木を外周に植えればいいかと。みかんのところは入りくいようにと思っていて柵をするかな?
「多少甘い管理状態」はいいなあと思います。どんなふうに形にしていくか知恵をだしあっていきたいなあ~。
公園というからには、誰でも出入りでき、またどんな人でも歓迎です。
野良をしている者が居れば散策を楽しむ人もいる。四季折々の野菜の顔を観に来る人もいよう。訪れる人々に「やさしい環境」を贈る公園にしたいなあ。
それには花も必要だ。スカーと開けるメインの通りの整備も要る。豊かな野菜で四季を演出したいし。食事祭も頻繁に開催したい。一寸つまんで黙って帰ってもいい。そんな人間文化空間にしたいな。そんな地域空間にしたいですね。