東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

神田明神

2011-12-13 20:42:13 | 千代田区
町を見ていく上で、テーマとして何か取り上げるものがあればと思って考えていたら、神社は面白いと気が付いた。これについては。実のところ旧江戸市中よりもその周辺部においてより面白いし、重要になってくると思う。それについては、回を重ねる内に触れていきたいと思う。まずは、最初は神田明神を最初に取り上げてみようと思う。


その創建は、730年と言われ、大己貴命を祭神として祀ったのが始まりとされているという。1309年に平将門の祟りで疫病が流行ると言われたことから、祭神として祀られるようになった。以後、江戸開府以来、江戸城に鬼門除けとして、江戸総鎮守として江戸の町の守り神として信仰を集めてきたのが神田明神である。


元々の神田神社は、今の場所ではなく大手町の将門塚の辺りにあったという。江戸城拡張の為に、現在地へ移転した。

今、神田明神を訪れると、コンクリート造りの社殿が聳えている。江戸総鎮守というだけあって、古めかしい年月を経た木造の社殿ならとも思うのだが、コンクリート造りの神社としては非常に古い部類に入る昭和9年完成の社殿である。関東大震災によって旧社殿は焼失したのだが、その甚大な被害から立ち直る中でコンクリート造りの社殿を造った想いを考えてみると、木造ならもっと良かったのにとは簡単に言えないという気持になる。

神田明神は江戸の総鎮守だが、氏子は江戸の半分を占めることになる。残りの半分は赤坂日枝神社の氏子ということになる。日枝神社は武家地の多いエリアでもあり、日本橋、神田といった町場を含めたエリアを氏子に持つ神田明神は江戸の人々には馴染み深い神様でもあった。この辺りはWikipedeiaのこのページに詳しい。

近年、盛大さを取り戻しつつある神田明神のお祭り、神田祭は天下祭と言われた。江戸から明治に掛けては、山車を中心にしたお祭りで盛大なものだった。その行列が江戸城内に入り将軍の拝謁が許されたので、天下祭と言われたわけである。


明治7年に明治天皇が行幸するにあたり、逆賊である平将門が祀られているのはあるまじきとして、神社が祭神から将門を外した。これを知った氏子は激怒し、祭のボイコットにまで発展したという。これが神田祭の衰退の始まりともいうそうだ。もっとも、この後10年ほど祭りは行われず、その後に再開したときには旧然を上回る規模だったというが、台風に襲われている。
その後、明治も後半になってくると市電や電気の普及によって市内に電線が張り巡らされるようになり、祭の山車が廃れていく要因になった。また、この頃は九月に祭が行われていたことで、台風の直撃に襲われることも度々であったらしい。現在のような精度の高い天気予報は有り得なかった時代でもあり、これも祭の衰退を促した。

昭和51年にNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」で平将門が取り上げられ、これを契機に平将門を祭神に復活させようという機運が氏子の間でも高まり、昭和59年に祭神へと復帰した。これについては、神田明神横手にある神田の家の主であった神田明神氏子総代遠藤達蔵氏の御尽力が大きかったようだ。詳細は明かされてはいないが、「神田の家」で購入した資料にはそこはかとなく触れられている。

社殿横を左手に行くと、神田明神資料館がある。ここには神田明神、それに神田祭の歴史に関する資料が数多く収められている。土日、祝祭日のみ開館しているので、一度は見ておくべきだと思う。
また、千代田区では山王神社の祭と合わせて、天下祭の花形であった江戸型山車についての調査、研究をまとめた資料を作成してる。私は以前に区立四番町歴史民俗資料館で購入した。神田祭や山王祭で使われていた山車が、その後に東京周辺へと売られていって、今でも保存されているものも


神社は、信仰の場です。参拝される方々の邪魔にならぬように、マナーを守って訪問しましょう。境内に入るときに一礼し、手水を使い、参拝しましょう。

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