東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

千代田区神田駅界隈拾遺

2012-08-30 22:15:59 | 千代田区
撮影した画像を整理しながら、撮影場所をチェックしてこのブログに掲載しているのだが、掲載し忘れていたりこぼれてしまったりというカットでも、面白そうなものがあったので拾っておこうと思う。

まずは神田駅にて。東京駅と上野駅の間を繋いで、東海道線と東北、高崎線の中距離電車を直通運転させようという計画が進行している。ずっと前には、この区間の線路は繋がっていたのだが、東北新幹線の建設工事で分断されてしまっていた。昔繋がっていた時には、僅かな列車が東京駅まで乗り入れていたのだが、今回の計画では東京、上野止まりというのを止めて、そのまま直通で相手方の行き先まで走らせようと言うことになっているそうだ。この計画で、都心部の品川の車庫が不要になったという。反面、事故などで遅れが出た場合には、ダイヤの回復に要する時間が増加するだろうと言われている。とはいえ、巨大な桁が非常に高いところを見ていても分からないような速度で、でも確実に動いている。


東京の鉄道網のあり方も、じわりじわりと変化しているのだと改めて思う。渋谷でも東横線の地下乗り入れが出来れば、埼京線ホームの移設も行われるようだ。長い間続いてきた景色も変わる時には変わってしまう。


神田司町二丁目8にあった昭和初期の震災復興期に建てられた商家の在りし日の姿があったので、追加掲載しておく。このブロック全体が昭和初期の建物が固まっていたようで、そのまま長い間過ごしてきたのだろう。今は全て取り壊されてしまった。


左側の建物の屋根裏部屋部分。壁面が傾斜が付けられていて、マンサード屋根の雰囲気はあるが、和風な出来上がりになっている様だ。神田司町二丁目8。


恐らくは左側にも似たようなブロックが並んでいたのだろうと思う。一足先に取り壊されて、駐車場になっている。そのお陰で、残ったブロックの奥へ並ぶ家並みが見える。神田司町二丁目8。


神田の町には、お稲荷様が多い。ここは御宿稲荷神社(みしゅくいなりじんじゃ)。「1590年 小田原北条攻めの陣中で、豊臣秀吉から坂東への移封を命ぜられた 家康公が直ちに親領国の視察をした際に、この地の郷土の家に宿をとった事により、 この庭の祠を村人は御宿稲荷として信仰し、後に家康公の足跡を記念して社地を 寄進されました。」とのこと。元々は神田三河町一丁目であったところ。神田鎌倉町というのは神田三河町の隣町になるのだが、震災復興期にこの辺りも大幅な町割の変更が行われており、新旧対照が難しい。


鎌倉河岸の千代田区立スポーツセンターの前にあった「神竜小学校跡地」の碑。昭和41年に神田小学校に統合されて廃校になってしまった。明治以来の歴史ある学校だった。神田龍閑橋ということから付けられたのだろうか。面白いのは、龍閑橋はこのすぐ近くにあり、龍閑川はその橋の下を流れているのだが、町の名前では東龍閑町というのがあり、これはずっと離れた神田川沿いに位置している。調べてみると、江戸時代には龍閑橋の辺りに龍閑町があったらしい。東龍閑町の辺りは、龍閑町代地であったという。


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