東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

千代田区六番町

2012-01-29 21:54:20 | 千代田区
しばらく前の「東京・遠き近くを読む」で取り上げた有島武郎の「或る女」、そして相馬黒光「黙移」、阿部光子「「或る女』の生涯」と読んでみて、どうしてもここを歩いてみたくなって行ってみた。千代田区六番町である。


今はその通りには、番町文人通りと名が付けられている。そして、千代田区の設置したプレートがどこに何があったのかを示しているのだが、往時を偲ぶ縁がそれ以外にはほぼ全く残されていないことが残念に思う。


全体像も分かりやすい案内板も設置されていて、東京メトロ有楽町線麹町駅で降り、日本テレビの前を通りすぎた角の辺りを見れば、看板が眼に入ってくる。


そして、その角から二軒目に明治女学校があった。明治25年から明治29年2月に火災で焼失するまでの間、この地で女子教育の最先端ともいえる学校が花開いていた。


焼け残った校舎で授業を続け、その翌年北豊島郡巣鴨、今の都電荒川線庚申塚停留所の裏手に校舎を新築して移転した。移転後は振るわず、生徒数も減少してしまい、明治32年に閉校した。


そして、この場所に三番町の国木田独歩の元から抜け出した「或る女」のモデルとされた佐々城信子は、明治女学校の寄宿舎にいた従姉妹の相馬黒光を訪ねたのだ。そして、そのまま彼女は過ちの結婚生活から走り出ていったのだった。そう、正にそれはこの通りだった。


今はマンションが建ち、なにもそんな過去とも関わりのない町であるかのように見える。隣は駐車場になっていたが、その土台の石積みはひょっとすると不安な面持ちでこの道を歩いた佐々城信子を、そして相馬黒光を見ていたのだろうか。


そして、何ともいえない気持になるのは、その佐々城信子をモデルに「或る女」を書いた有島武郎の旧居が、その直ぐ先にあることである。武郎の父がこの地に家を買い求め、そこに兄弟が暮らしていたのだが、「或る女」で書いたある部分は、まさに自らの家の目の前で起きていたということが、ある意味ショッキングなほどである。


武郎だけではなく、有島生馬、里見弴の弟たちもここで暮らしていた。


しかし、「『或る女』の生涯」を読むと、佐々城信子の実像と小説が信子の表層をそのまま持っていきながら、有島の創作で描かれたものであることなど、よく理解することができる。そして、相馬黒光の人物像についても寄り理解を深めることができる。そんなことを考えながら歩くには、この道は丁度良い。三番町の国木田独歩の旧居へ歩いて見るのも一興だろう。
番町といえば、東京の中でも最上級の住宅地というイメージが強い。元祖山の手といった感もあり、それが故に建物の新陳代謝もサイクルが早く、古くからの建物はなかなか残ってはいない。そして、面白いと思うのは、有島始め、個人宅がこの辺りにもかつては数多くあったということ。今は高級マンションが幅を効かせているが、明治女学校も裕福な学校というわけではなかったようだし、三番町に住んでいた国木田独歩も極めて貧乏していたようだ。明治中期のこの辺りは、維新で武家屋敷が皆空き家になってしまってから、過疎から立ち直っていった頃と言えそうだが、必ずしも高級住宅街という場所ではなかったようだ。そんな変遷を考えながら歩いてみた。


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