東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(2)日本橋

2011-12-15 18:57:15 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。

二回目は「日本橋」である。著者は、前回触れたように深川清澄町の生まれである。その地元から日本橋へ向かう市電や川を渡る気持など、本所辺りに育った人の見てきた景色が思い浮かぶ。市電の番号が即座に出てくる様な思い出は、都電が消えゆく所を辛うじて見送った私の世代から見ればどこか羨ましく思える。私の母と話をしていると、やはり自分の通学に使っていた路線の番号はすらすらと出てくる。私にとっては、小学生の頃に越境入学をしていたのでバス通学をしていたが、そのバスの番号は今でも思い出せるのと似たものかもしれない。ちなみに、東京駅丸の内北口と都営志村車庫を結ぶ路線で、105番という番号だったのを覚えている。

清澄町辺りで「運河、貯木場、製材所、商店街、町工場、それに浅野セメントの大煙突のような光景ばかりみていた子供」と書かれているのだが、それすらも旧東京市街からみれば場末の板橋で生まれ育った私からすると、いかにも東京都心部の景色だなと思える。隅田川にまつわる思い出というのは、いかにも江戸からの東京と言う町に育った人々にとっての原風景と言うべきものに思える。その原風景の頂点に位置するのが、日本橋と言えるだろう。
まずは永代橋を隅田川から見た景色。


日中戦争が拡大してゆく世相、そして昭和15年の紀元二千六百年祝典の折に、宮城前の提灯行列に出る為に往復電車に乗らずに歩いたと記されている。時代が翳りを帯びてくる中で少年は歩く楽しみを知り、場所を変えることで見え方が変わることの楽しさを知っていく。この辺りを読んでいると、正に今の私自身が見たかった町を著者が見ていたのだと感じてしまう。
川面から見た日本橋。こうしてみると、本当に美しい橋だと実感出来る。


映画や芝居を見るために、日比谷、有楽町、浅草、錦糸町へ両親や従姉と一緒に出掛けたという下りなどは、私にとっては日比谷、有楽町、新宿、池袋といったイメージになる。地域と年代での変化と言うべきか。日本橋のデパートで催されていた戦意高揚の展覧会を欠かさず見にゆく時代の子であったという。この辺りの日本橋に対する親近感も、地域性時代性を感じてしまう。著者よりも僅かに年下の私の母は、麻布辺りで育ったのだが、やはり買い物といえば日本橋という感覚を持っているようだし、三越の特別食堂の話をするときなど、やはり格別の思い入れを感じる。私にとっては日本橋は買い物に連れて行かれた記憶はあるが、我が家からの交通の便があまり良いとは言えず、知ってはいる場所だが身近な感覚はあまりない。日常が地元だとすれば、その延長で池袋があり、良質な買い物に出掛けるのなら銀座という感覚だろうか。その意味合いを考えてみると、三越の絶対的な優位性のレベルが時代と共に変わって来たことを示しているようにも思える。

「永代橋の北詰を右に折れると、すぐ豊海橋がある。日本橋川の河口にかかっていて、ここから見る隅田川は実に水量豊かである。」と、永代橋から直ぐ北へと話が振られていくのだが、その前に少し。永代橋の都心寄りは中央区新川という地名になっているのだが、元々は霊岸島と呼ばれたところである。江戸時代の埋立地で、霊岸寺という寺が造られ参拝者で賑わったという。埋立地で地盤が固まっていなかったことからこんにゃく島と江戸っ子からは呼ばれた。寺を置いて参拝者に踏み固めさせて固まったところで、寺は移転というのが幕府の思惑であった。今は川向こうの清澄庭園の向こう深川江戸資料館の隣に位置している。霊岸島は結構な賑わいで花街も出来て、ここの芸者をこんにゃく芸者と呼んだのはこんな経緯があったからだという。
また、霊岸島の内陸側の運河を亀島川というのだが、この辺りこそが江戸の町の海の玄関口江戸湊であった。江戸市中へ外から来て入る船は、亀島川で御船手奉行所の調べを受けることになっていた。戦前まで、東京湾周辺への船便が出ていた場所でもあった。
亀島川を望む。


そして、その北側の日本橋川を越えたところが箱崎町、その北が中洲である。今は中洲も完全に地続きでビルの建ち並ぶ町になっているのだが、東京シティエアターミナル建設前までは、箱崎川という運河があり、中洲と箱崎町は島であった。ここで著者は永井荷風を引いて、この辺りのかつての情景を甦らせようとしている。昭和10年12月7日の日記から、「豊海橋鉄橋の間より斜に永代橋と佐賀町辺の燈火を見渡す景色、今宵は明月の光を得て白昼に見るよりも稍画趣あり。満々たる暮潮は月光をあびてきらきらと輝き、橋下の石垣または繋がれたる運送船の舷を打つ水の音亦趣あり。」と引用している。続けてまた引用されていくのだが、往時の隅田川辺りの風情がどこか思い浮かんでくる。荷風は中洲に病院を開いた旧友大石貞夫を訪ねて診察を受ける。この大石医院は昭和12年版の日本橋区地図に掲載されている。この辺りは実に微妙に空襲で焼けたところと、免れた地域とが混在している。中洲、箱崎町辺りは免れた方に入る様なので、荷風は晩年にこの地を歩いてかつての東京の面影を探したのだろうか?
豊海橋、これも隅田川より。


大石病院が昭和12年の地図に載っていると書いたが、大石貞夫は昭和10年1月25日に亡くなっていること、その葬儀の日に荷風が詠んだ句が紹介されている。これによって、先に引いた散歩の記述が有人の死後に書かれたものであったこと、冬の月に照らされる大川の景色が友への想いを寄せたものであったことに考察されていく。この辺りは正に著者ならではの深い考察だと思う。大石病院、中洲病院とも呼ばれている。「大正九年八月に日本橋中洲の隅田川を望むところに中洲病院を開業した。大正十二年九月の大震災で病院が全壊してからは、一時、北海道へ移ったが、昭和二年五月に帰京してからは、おなじ中洲の土地に「四層鉄筋凝土建エレベータ附設の中洲病院を復興した」という。」とある。
中央区が復刻している昭和12年の日本橋区地図より。


中洲にはかつて、隅田川の景観を売り物にした料亭が数多くあったという。今は亡き私の父には、かつてその一軒から婿養子の話があったというのを聞いたことがある。祖母が養子などとんでもないと言って大反対したので立ち消えたという。私の父は家では仏頂面で無精な男だったが、外面が大分違う面を持っていたようで、大学時代に小唄を習ったりしていたとも聞いたことがある。その話に乗っていたら、勿論私はいないことになるのだが、意外と父ならそんな暮らしが似合う人だったかもしれないと思ったりもする。

さて、本文では中洲の思い出から、荷風の随筆「町中の月」へと触れていく。「為永春水の小説『春暁八幡佳年』の一節を憶いおこす。月の冴えわたる冬の夜ふけに、深川がえりの若旦那がなじみの船頭に猪牙船をこがせ、永代橋の下をくぐるとき身投げの娘を救ったあと、稲荷橋へ向かう途中の二人の対話を引いている。」とここから船頭と若旦那のやり取りになるのだが、冬の夜更けの月夜の景色の壮絶な美しさが目に浮かぶようでもある。「浪へ月がうつるので、きらきらしてものすごい様だの。」といった会話で、その様を語っている。

箱崎は川に囲まれた島で、倉庫が建ち並ぶ様なところであったものが、今では箱崎シティエアターミナルとそこを取り巻く高速道路とで町が激変した。今では箱崎川は跡形もなく、成田空港への玄関口という役割を持っている。前回に登場した隅田川大橋も再び登場して、詳細が紹介されている。そこで島正之氏の著書「隅田川」から引用して、この橋の上からは上流川の清洲橋と下流川の永代橋の対比が出来ること、そして此の橋から眺める永代橋が隅田川の橋の中で一番美しいということを紹介している。「昭和初期からの橋の景観を殺すことによって得た、あらたな美観というべきなのかもしれない’。」と、少々皮肉を含んで記している。これもそれ以前の時代を知ればこその言葉と思う。
これが悪評高い隅田川大橋。確かに美観という点では、何とも褒めようのない橋である。


再び、ここで日本橋へと話は引き戻される。「日本橋へむかう道はなんとなく気分を晴れやかにさせる。」というのは、正に日本橋に親しんできた地域の育ちであり、その世代の人の言葉なのだ。古き良き時代の東京なればこそ、と思う。「関東大震災のあとにつくられた家なみとかビルのかたちがおのずとよみがえってくる。そこには明治や大正のおもかげがのこっていて、電車の停留所の標識で地名をおぼえたことをおもいおこす。東京市中のどこでもその標識と付近にある建物の特徴で、それとわかったのだが、しかしいまでは直線ずくめの四角いビルばかりで自分の位置をみまちがうことになりかねない。」というのは、さらに状況が悪化するばかりである。

日本橋界隈の文化的な意味合いが江戸以来のものがあり、今度は寺田寅彦の大正9年の随筆「丸善と三越」を引いている。「富士山の見える日本橋に「魚河岸」があり、その南と北に「丸善」と「三越」が相対していることのおもしろさをあげ、「丸善が精神の衣食住を供給しているのならば三越や魚河岸は肉体の丸善であると言ってもいい」書いたことがあった。彼はそのようなおもいとともに、丸善や三越に縁のない隅田川の労働者やその家族たちにも想いをよせていたのだが、高級で、知的名感覚や精神的愉悦をここから十分にかぎとっている。私のような深川の野育ちの少年であっても、日本橋は大きな憧れの対象であった。」と、正に日本橋という土地の持っていたステイタスがどんな人々の気持ちで支えられることで成り立っていたのか、それが感じられる様に思う。
日本橋魚河岸の碑。


日本橋の通りも、終戦後には闇市で埋め尽くされたという。その思い出から、著者は現在の日本橋へと歩みを進める。箱崎そして隅田川へと繋がっているのは元々川であったのに、今では頭上を高速道路が覆い尽くしている。その頭上の空間に一体何があったのか、物心付いたときには既に今の状態になっていた世代の私は新たにそれを見てみたいと思う。何時の日か、高速道路が造り直されて、日本橋が再び空を取り戻してくれる日が来て欲しい。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿