これまでは板橋宿の中仙道の北側を見てきたのだが、今回は街道の反対側一丁目に触れてみようと思う。北園高校辺りから下板橋駅辺りに掛けては、昭和20年4月の空襲で焼けてしまい、戦前の面影を失ってしまったのは非常に残念なことだと思う。このエリアの特徴としては、地形上の一番高いところと低いところの両方を川が流れているということだろう。高いところを流れる川というのは、どう考えてもおかしいと思われるだろうが、人口河川の千川上水が流れているのだ。まずは明治末のころの地図を御覧頂こう。黄色く塗ってあるのが家の建っているところ。その他は田畑や未利用地だった。
この当時は、府立九中(現北園高校)もまだ出来ていない頃で、石神井川、千川上水、谷端川という三つの流れがあることがわかる。千川上水は江戸時代に開削されたのだが、江戸の上水としての利用は短い期間で終わり、農業用水としての利用がメインとなってきたようだ。まずは府立九中が出来た頃の写真を板橋区発行「板橋の平和」から。手前の白く見える道路が国道17号線である。上御代の台分譲地の開発はまだ手つかずなように見える。隣は板橋区立第四小学校。
国道17号線と絡み合うように流れていた千川上水。板橋区役所前付近で国道17号とクロスしてから一旦裏へ入っていく辺り。この向こうで再度国道17号を越えて、現在の板橋郵便局の裏手を抜けて板橋駅へと続く道になっている。
これは線路の向こう側にある、千川上水のマンホール。
そして、これは下板橋市電終点前の岩朝食堂とその隣の東洋パン経営のミルクホール。この写真は昭和19年の出征の時のもので、「板橋の平和」から。現在ミルクホールの場所は更地になっており、岩朝食堂のところにはマンションが建っている。道路に沿って大きな店構えであったのだが、昭和20年の空襲で焼失し、戦後区画整理が行われて北園高校の正門前の通りができている。だが、マンションの建物の形はまさしくこの写真の岩朝食堂と同じ形になっている。ただし、北園高校正門前の通りができたので、その分敷地が削られている。
まずは板橋区発行の「いたばしの昔ばなし」に掲載されていた都電終点の下板橋から東武東上線の下板橋駅に掛けての様子を描いた絵図。現在の板橋郵便局の横の道が東上線の下板橋へと通じる道で、郵便局の裏手を千川上水が流れており、そこに架かっていた橋にちなんで花月橋通りと呼ばれていた。
東武東上線下板橋駅は、大正3年に開業した駅である。東上線は当初始発駅を現在の地下鉄丸ノ内線の新大塚駅付近にと計画されていたのだが、当時の東京市は私鉄の市中への乗り入れを制限する意志を持っていた。その結果、東上線は下板橋を起点として、最初の開業を迎えることになった。池袋~下板橋間は軽便鉄道免許で開業した。この経緯から、現在でも下板橋踏切付近に東上線の建設記念碑が建てられている。また、開業当時は下板橋駅の位置は現在に位置ではなく、今は東武デパートの配送センターが置かれ、電車の留置線が設けられている辺りが最初の位置だった。昭和10年に池袋~上板橋間の複線化が行われたときに現在の位置へ移動した。また、下板橋~大山間に金井窪という駅があった。金井窪駅は昭和20年の空襲で被災し、そのまま廃駅となった。下板橋~大山間もそれほど距離があるわけではないが、その間の金井窪駅は駅間距離が非常に短かった。
下板橋駅移設後、旧下板橋駅付近は貨物駅になっていた。電気機関車が貨車を引いてきて、貨物列車が運行されていたのを覚えている。この貨物用には蒸気機関車も使われていたそうで、昭和40年代まであったらしい。蒸気機関車活躍当時には、金井窪の踏切辺りに転車台などがあった。
やはり昭和20年4月の空襲で焼けてしまったことで、国道17号から下板橋までの大きな通りが造られることになったようだ。都市計画上では、この道路は池袋本町を貫通して劇場通りと繋がり、一方では国道17号線で段が付いている形になっている王子方面への道路に繋げる予定であったという。この計画は少なくとも板橋区の側はキャンセルされたそうだ。
加賀藩下屋敷のことを書いたときに触れたのだが、旧中山道と国道17号の間の板橋1丁目あたりは、下屋敷の正面玄関があり、御殿と呼ばれたメインの建築物などもあった辺りなのだが、国道17号が延伸したときにその真上を通過することになり、また昭和20年の空襲の後に区画整理が行われたことで、下屋敷境界線がほぼ失われてしまっている。昭和16年の地図ではこんな様子だった。縮尺の関係であまり精細でないのが残念だが、旧中山道にへ移行した区画になっていることが分かると思う。現在はこれが失われている。三田線新板橋駅付近の道路が曲がりながら入っている所など、現在では何故こうなっているのか意味が分からないだろう。今の板橋ビュータワーの場所は、かつては板橋駅の貨物駅があった場所だった。その為のトラックの出入りをの便を考えて、ああいう形になったのだろうと思う。貨物駅がなくなり高層マンションになってしまうと、道路の形の意味すら分からなくなってしまうものなのだと思う。
この当時は、府立九中(現北園高校)もまだ出来ていない頃で、石神井川、千川上水、谷端川という三つの流れがあることがわかる。千川上水は江戸時代に開削されたのだが、江戸の上水としての利用は短い期間で終わり、農業用水としての利用がメインとなってきたようだ。まずは府立九中が出来た頃の写真を板橋区発行「板橋の平和」から。手前の白く見える道路が国道17号線である。上御代の台分譲地の開発はまだ手つかずなように見える。隣は板橋区立第四小学校。
国道17号線と絡み合うように流れていた千川上水。板橋区役所前付近で国道17号とクロスしてから一旦裏へ入っていく辺り。この向こうで再度国道17号を越えて、現在の板橋郵便局の裏手を抜けて板橋駅へと続く道になっている。
これは線路の向こう側にある、千川上水のマンホール。
そして、これは下板橋市電終点前の岩朝食堂とその隣の東洋パン経営のミルクホール。この写真は昭和19年の出征の時のもので、「板橋の平和」から。現在ミルクホールの場所は更地になっており、岩朝食堂のところにはマンションが建っている。道路に沿って大きな店構えであったのだが、昭和20年の空襲で焼失し、戦後区画整理が行われて北園高校の正門前の通りができている。だが、マンションの建物の形はまさしくこの写真の岩朝食堂と同じ形になっている。ただし、北園高校正門前の通りができたので、その分敷地が削られている。
まずは板橋区発行の「いたばしの昔ばなし」に掲載されていた都電終点の下板橋から東武東上線の下板橋駅に掛けての様子を描いた絵図。現在の板橋郵便局の横の道が東上線の下板橋へと通じる道で、郵便局の裏手を千川上水が流れており、そこに架かっていた橋にちなんで花月橋通りと呼ばれていた。
東武東上線下板橋駅は、大正3年に開業した駅である。東上線は当初始発駅を現在の地下鉄丸ノ内線の新大塚駅付近にと計画されていたのだが、当時の東京市は私鉄の市中への乗り入れを制限する意志を持っていた。その結果、東上線は下板橋を起点として、最初の開業を迎えることになった。池袋~下板橋間は軽便鉄道免許で開業した。この経緯から、現在でも下板橋踏切付近に東上線の建設記念碑が建てられている。また、開業当時は下板橋駅の位置は現在に位置ではなく、今は東武デパートの配送センターが置かれ、電車の留置線が設けられている辺りが最初の位置だった。昭和10年に池袋~上板橋間の複線化が行われたときに現在の位置へ移動した。また、下板橋~大山間に金井窪という駅があった。金井窪駅は昭和20年の空襲で被災し、そのまま廃駅となった。下板橋~大山間もそれほど距離があるわけではないが、その間の金井窪駅は駅間距離が非常に短かった。
下板橋駅移設後、旧下板橋駅付近は貨物駅になっていた。電気機関車が貨車を引いてきて、貨物列車が運行されていたのを覚えている。この貨物用には蒸気機関車も使われていたそうで、昭和40年代まであったらしい。蒸気機関車活躍当時には、金井窪の踏切辺りに転車台などがあった。
やはり昭和20年4月の空襲で焼けてしまったことで、国道17号から下板橋までの大きな通りが造られることになったようだ。都市計画上では、この道路は池袋本町を貫通して劇場通りと繋がり、一方では国道17号線で段が付いている形になっている王子方面への道路に繋げる予定であったという。この計画は少なくとも板橋区の側はキャンセルされたそうだ。
加賀藩下屋敷のことを書いたときに触れたのだが、旧中山道と国道17号の間の板橋1丁目あたりは、下屋敷の正面玄関があり、御殿と呼ばれたメインの建築物などもあった辺りなのだが、国道17号が延伸したときにその真上を通過することになり、また昭和20年の空襲の後に区画整理が行われたことで、下屋敷境界線がほぼ失われてしまっている。昭和16年の地図ではこんな様子だった。縮尺の関係であまり精細でないのが残念だが、旧中山道にへ移行した区画になっていることが分かると思う。現在はこれが失われている。三田線新板橋駅付近の道路が曲がりながら入っている所など、現在では何故こうなっているのか意味が分からないだろう。今の板橋ビュータワーの場所は、かつては板橋駅の貨物駅があった場所だった。その為のトラックの出入りをの便を考えて、ああいう形になったのだろうと思う。貨物駅がなくなり高層マンションになってしまうと、道路の形の意味すら分からなくなってしまうものなのだと思う。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます