過去に撮影したネガを整理した時に溜めておいた分で、以前の板橋の回では掲載できなかった分があったので、現在の様子と合わせて掲載してみる。モノクロのオリジナルの撮影時期は1980年から1981年4月頃のものである。現在の姿は、本日撮影してきた。
最初は中山道、国道17号沿いの景色から。これはちょうど当時で言えば赤羽線の陸橋の上で撮影したカット。コンクリートの欄干が懐かしい。通りの向こう側には東京ガスの建物(現存)と今は無くなったガスタンクがちらっと見えている。ガスタンクが無くなるなんて、当時は知る由もなくて、気が付いたら無かったという感覚だった。国道17号線はこの陸橋を境に都心よりは片側二車線に狭まった。今は道路拡幅され、首都高の高架が空を塞ぎ、まるで同じ場所とは思えないような有様になっている。


その陸橋上から板橋駅、池袋方面を望んだ景色。雰囲気はあまり変わらないが、右手の貨物駅があったところに高層マンションが建っている。


その貨物駅構内の様子。コンテナが積み上げられていて、向こうには屋根の付いた積み卸しの場所が設けられている。貨車の列が見えて、貨物駅が生きている様子が分かる。その場所には、今は高層マンション。


国道17号線、志村方向を望む。ここから道幅が広がっているので、ガードレールが車道上にも設置されているのが見える。そこにトラックが止まっている。左手にはトヨタのディーラーがあった。道の向こう側にはガソリンスタンドがあった。今はトヨタのディーラーは駐車場になり、ガソリンスタンドは家具年金会館になっている。地下鉄の出入り口は歩道の上から、左側の板橋駅へ近い段差の側面に出入り口が移されている。


その、地下鉄出入り口の辺りから板橋駅方向を望んだところ。左手のマンションはまだ工事が終わっていない。右手のトヨタのディーラーは、下が修理工場だった。場末感の漂う、ちょっと寂しい通りだった。今はJRと地下鉄の乗り換え客が非常に多く、人通りの多い通りになっている。


その通りを板橋駅方向へ行ったところ。左側のマンションは今でも変わらないが、右手の角は新しいビルになっている。


これは別の日の夜に撮影した分。板橋駅方向から、三田線新板橋駅方向を望んでいる。右手には貨物駅の日通のマークの描かれた倉庫があって、その先には貨物駅のトラックなどの出入り口があった。そんな風だったので、この道はちょっと寂しい感じのところだった。


そして、都営三田線新板橋駅。入口の建物の上にさらに増築されているが、これは永らく最終下りが新板橋泊まりで、翌朝始発下りが新板橋始発であった時に、乗務員が宿泊できるように作られていたもの。時に味噌汁の香りがしたりしていたのを覚えている。今は新板橋終着、始発はなくなったようだ。今年の夏には待望のエレベーターも設置されて、周囲も整備された。奥に見えているのは、かつては富士電機の配送センター。今は葬儀場になっている。


国鉄赤羽線板橋駅前のロータリー。JRって書くより、国鉄って方がしっくり来る、未だに。変わらないようで、結構変わっている。右手の高崎ハムのビルも建て替えられてマンションになり、高崎ハムはなくなった。その奥に見えている国鉄の社宅もなくなり、分譲マンションになっている。ロータリーから駅越しにサンシャイン60が見えている。駅周辺に高い建物が少なかったのが分かる。


旧中山道、赤羽線の踏切。左手は貨物駅だったので、コカコーラの大きな看板が立っている。そして柵で仕切られている。このアングルでも線路の向こうにも高い建物が少ない。


板橋駅前の国際興業バスの停留所。王子駅行きのバスの時刻表。昼間は一時間に一本しか走っていない。この当時は帝京病院には行かず、ライフの横の通りをそのまま金沢橋へ向かって、王子へと向かうバスだった。板橋と王子を結ぶバスは、昭和の初期にはもう走っていた歴史がある。今は帝京病院経由で、一時間に三本走っている。それなりに利便性は高い。


再び国道17号線、平尾交番に近い歩道橋の上から板橋区役所方向を望んだ景色。板橋郵便局の前にも歩道橋があり、協和銀行が見える。その隣には埼玉銀行が並んでいた。合併してりそなになるとは、この頃は夢にも思えなかった頃。ここも首都高が出来て、雰囲気が一変した。


国道17号線と旧中山道が交差する、平尾交番近くの商店の並び。ついこの間までこうだったと思っていたのに、気が付くと一軒も残っていない。


歩道橋の上から、滝野川方向を望む。歩道橋の位置が現在は少し都心よりに移動している。道の両側にガソリンスタンドがあった。短い区間に一体何軒あっただろうかと思えるほどにたくさんのガソリンスタンドがあった。今はほぼ壊滅している。


歩道橋の階段から都立北園高校の旧校舎が顔を出しているのが見えた。重厚な雰囲気の校舎だったのは良く覚えている。戦前には、この画面の右手のマンションのところに岩朝食堂という大きな食堂があった。空襲で焼失してしまったという。正面の低い建物は、生命保険会社だったと思う。今は専門学校の校舎建築が予定されていて、更地になっている。歩道橋の位置が変わったので、地平からだが、今も北園高校が見える。


その北園高校の通用門の辺り。校舎を建て直した時に塀も全周に渡って造り直したので、雰囲気は大幅に変わった。明るく綺麗になったのは確かだ。重厚だが、やや重苦しくも思えていたのも確か。学生と違って、日常生活で目にし続けているものだけに、重苦しく暗いとも思えていたのだが、今となってみると昔の雰囲気も決して悪くなかったと思える。私は北園ではない都立高校に通ったが、ちょうど入学時から新校舎に切り替わった学年だったので、知らないまま、眼の前で解体されていった旧校舎への思いというのは、分かる。左側は戦災で焼失したのだが、戦後に同じ規格であるかのように再建された家が並んでいた。これも今は一軒しか残っていない。


最後は通り掛かった時に偶然扉が開いていたので、北園高校のグランドの景色。向こうに見えているのは、板橋スカイプラザというマンション。この辺りでのマンション建設の嚆矢であったように思う。ガスタンクも見えている。このグランドの通用口は今もあるが、位置が少し変わっている。道路のガードレースの切れ目で、その痕跡が今も残されている。旧校舎時代には、塀沿いに木が植えられていて、それがまた独特の雰囲気を醸し出していた。


もう一回、板橋駅と赤羽線の分もある。次回はそちらで。
最初は中山道、国道17号沿いの景色から。これはちょうど当時で言えば赤羽線の陸橋の上で撮影したカット。コンクリートの欄干が懐かしい。通りの向こう側には東京ガスの建物(現存)と今は無くなったガスタンクがちらっと見えている。ガスタンクが無くなるなんて、当時は知る由もなくて、気が付いたら無かったという感覚だった。国道17号線はこの陸橋を境に都心よりは片側二車線に狭まった。今は道路拡幅され、首都高の高架が空を塞ぎ、まるで同じ場所とは思えないような有様になっている。


その陸橋上から板橋駅、池袋方面を望んだ景色。雰囲気はあまり変わらないが、右手の貨物駅があったところに高層マンションが建っている。


その貨物駅構内の様子。コンテナが積み上げられていて、向こうには屋根の付いた積み卸しの場所が設けられている。貨車の列が見えて、貨物駅が生きている様子が分かる。その場所には、今は高層マンション。


国道17号線、志村方向を望む。ここから道幅が広がっているので、ガードレールが車道上にも設置されているのが見える。そこにトラックが止まっている。左手にはトヨタのディーラーがあった。道の向こう側にはガソリンスタンドがあった。今はトヨタのディーラーは駐車場になり、ガソリンスタンドは家具年金会館になっている。地下鉄の出入り口は歩道の上から、左側の板橋駅へ近い段差の側面に出入り口が移されている。


その、地下鉄出入り口の辺りから板橋駅方向を望んだところ。左手のマンションはまだ工事が終わっていない。右手のトヨタのディーラーは、下が修理工場だった。場末感の漂う、ちょっと寂しい通りだった。今はJRと地下鉄の乗り換え客が非常に多く、人通りの多い通りになっている。


その通りを板橋駅方向へ行ったところ。左側のマンションは今でも変わらないが、右手の角は新しいビルになっている。


これは別の日の夜に撮影した分。板橋駅方向から、三田線新板橋駅方向を望んでいる。右手には貨物駅の日通のマークの描かれた倉庫があって、その先には貨物駅のトラックなどの出入り口があった。そんな風だったので、この道はちょっと寂しい感じのところだった。


そして、都営三田線新板橋駅。入口の建物の上にさらに増築されているが、これは永らく最終下りが新板橋泊まりで、翌朝始発下りが新板橋始発であった時に、乗務員が宿泊できるように作られていたもの。時に味噌汁の香りがしたりしていたのを覚えている。今は新板橋終着、始発はなくなったようだ。今年の夏には待望のエレベーターも設置されて、周囲も整備された。奥に見えているのは、かつては富士電機の配送センター。今は葬儀場になっている。


国鉄赤羽線板橋駅前のロータリー。JRって書くより、国鉄って方がしっくり来る、未だに。変わらないようで、結構変わっている。右手の高崎ハムのビルも建て替えられてマンションになり、高崎ハムはなくなった。その奥に見えている国鉄の社宅もなくなり、分譲マンションになっている。ロータリーから駅越しにサンシャイン60が見えている。駅周辺に高い建物が少なかったのが分かる。


旧中山道、赤羽線の踏切。左手は貨物駅だったので、コカコーラの大きな看板が立っている。そして柵で仕切られている。このアングルでも線路の向こうにも高い建物が少ない。


板橋駅前の国際興業バスの停留所。王子駅行きのバスの時刻表。昼間は一時間に一本しか走っていない。この当時は帝京病院には行かず、ライフの横の通りをそのまま金沢橋へ向かって、王子へと向かうバスだった。板橋と王子を結ぶバスは、昭和の初期にはもう走っていた歴史がある。今は帝京病院経由で、一時間に三本走っている。それなりに利便性は高い。


再び国道17号線、平尾交番に近い歩道橋の上から板橋区役所方向を望んだ景色。板橋郵便局の前にも歩道橋があり、協和銀行が見える。その隣には埼玉銀行が並んでいた。合併してりそなになるとは、この頃は夢にも思えなかった頃。ここも首都高が出来て、雰囲気が一変した。


国道17号線と旧中山道が交差する、平尾交番近くの商店の並び。ついこの間までこうだったと思っていたのに、気が付くと一軒も残っていない。


歩道橋の上から、滝野川方向を望む。歩道橋の位置が現在は少し都心よりに移動している。道の両側にガソリンスタンドがあった。短い区間に一体何軒あっただろうかと思えるほどにたくさんのガソリンスタンドがあった。今はほぼ壊滅している。


歩道橋の階段から都立北園高校の旧校舎が顔を出しているのが見えた。重厚な雰囲気の校舎だったのは良く覚えている。戦前には、この画面の右手のマンションのところに岩朝食堂という大きな食堂があった。空襲で焼失してしまったという。正面の低い建物は、生命保険会社だったと思う。今は専門学校の校舎建築が予定されていて、更地になっている。歩道橋の位置が変わったので、地平からだが、今も北園高校が見える。


その北園高校の通用門の辺り。校舎を建て直した時に塀も全周に渡って造り直したので、雰囲気は大幅に変わった。明るく綺麗になったのは確かだ。重厚だが、やや重苦しくも思えていたのも確か。学生と違って、日常生活で目にし続けているものだけに、重苦しく暗いとも思えていたのだが、今となってみると昔の雰囲気も決して悪くなかったと思える。私は北園ではない都立高校に通ったが、ちょうど入学時から新校舎に切り替わった学年だったので、知らないまま、眼の前で解体されていった旧校舎への思いというのは、分かる。左側は戦災で焼失したのだが、戦後に同じ規格であるかのように再建された家が並んでいた。これも今は一軒しか残っていない。


最後は通り掛かった時に偶然扉が開いていたので、北園高校のグランドの景色。向こうに見えているのは、板橋スカイプラザというマンション。この辺りでのマンション建設の嚆矢であったように思う。ガスタンクも見えている。このグランドの通用口は今もあるが、位置が少し変わっている。道路のガードレースの切れ目で、その痕跡が今も残されている。旧校舎時代には、塀沿いに木が植えられていて、それがまた独特の雰囲気を醸し出していた。


もう一回、板橋駅と赤羽線の分もある。次回はそちらで。
首都高ができて一変しちゃったなぁ。
以前は都電の軌道がありましたよね。
その写真はお持ちではありませんか?
巣鴨~志村間の都電の廃止は、都内でもかなり早い時期だったので、私も見ているはずですが記憶にありません。昭和41年5月に、都営地下鉄の建設工事のために廃止になっています。そんなわけで、残念ながら、都電の写真、私は撮影していません。
巣鴨から向こうの都電には、小学生の頃に乗りましたが、間もなく廃止になって、代替バスというのが巣鴨から一ツ橋まで走っていたのを覚えています。これは昭和43年12月の都営地下鉄の巣鴨開通まで、志村から巣鴨の間でも走ってました。
ライフ、スカイプラザが建つ前に空き地だったこと、短い間でしたが中古車センターになっていたことも思い出します。ロケット山田様は私よりも年長でいらっしゃるので、この辺りの昔のことを私よりもご存知と思います。
崖下の駄菓子屋の10円のお好み焼きは私も食べたことがあります。懐かしいです。