千代田区神田須田町をしばらく前にこのブログで取り上げたのだが、その中でも紹介した建物が取り壊されようとしているという記事が、東京新聞2012年9月4日夕刊に掲載されていたので、紹介しておこうと思う。夕刊とは言え、一面トップの扱いでこういう記事が載るのが東京新聞の面白いところ。

場所は、旧交通博物館の前に当たるところ。このブログで紹介したカットは、2012年4月に撮影したものだが、隣はガソリンスタンドで、その向こうにあったかつては石丸電気の立体駐車場だったビルなども閉鎖されていて、何となく周辺まで含めてビルを建てようとしているのだという雰囲気があった。
記事によると、正確な建築年代は不明ながら、大正時代のものと言われているという。銅板貼りの建築は、かなり限られた時期に建てられているようだが、正確にいつからいつまでというのはなかなか特定できない。モルタル仕上げのものはかなり後々まで継続していくのだが、銅板張りは昭和の初期で終わってしまい、以後は作られていないようだ。マンサード屋根と銅板張りの組み合わせが珍しいと記事に出ているが、確かに現存しているところは減っている。かつてはそう珍しいというものでもなかったのだが。

戦後は、洋服の裏地や釦などを扱う店を営業されてきたという。これも、発祥を辿れば日本橋富沢町に遡れる様だ。柳原の通りに古着市が移ってきたことから、この辺りまで繊維関連の店が数多くあった。柳原の通りには今でも、関係する会社やお店が多い。それがこの辺りにまで及んでいたわけである。

来月十月には取り壊されてしまうというのだが、九月十~十二日まで、二,三階の内覧会や昔の写真のパネル展示などが行われるという。八月までここで生活されていたというのだが、家の内部を拝見できる貴重な機会だと思う。問い合わせ先は千代田区観光協会:電話03-3556-0391まで、「柏山邸公開の件」ということで。
ちなみに、昭和16年の万世橋駅廃止前の地図。震災前には、中央通りがなかった。万世橋を超えた通りは少し角度を付けて、この万世橋駅前へと続き、そのまま蕎麦屋の「まつや」の前を通って、九段下へ向かっていた。震災復興事業で大幅な区画整理が行われて、この地図のような形になった。広瀬中佐の銅像は戦後まもなく撤去されてしまい、昭和18年に廃止された駅は甦ることなく、そして交通博物館も平成18年に閉館し、大宮へ移転した。

そして、再開発の名の下に高層ビルの建設が行われている。この場所は東京の中でも一つのモニュメントともいえる場所であるだけに、後々までこれなら良かったといえるような建築物が建てばいいのだが。
これは万世橋のたもとにあった、路面電車の電柱。この場所に店があったりして、電柱が囲い込まれて長い間残されてきた。これも、バイクパーキングが作られて、撤去されてしまった。一説には明治以来の電柱という話もあっただけに、保存して欲しかった。

その電柱に付けられていた看板。電話番号の局番が三桁になっているし、横書きが左書きなので、この看板だけは古いといっても戦前までは溯らない。とはいっても、40年程度は軽く経過しているはずだが。

行けるようなら、柏山邸公開を見に行きたいと思っている。行ければ、このブログでも報告したい。

場所は、旧交通博物館の前に当たるところ。このブログで紹介したカットは、2012年4月に撮影したものだが、隣はガソリンスタンドで、その向こうにあったかつては石丸電気の立体駐車場だったビルなども閉鎖されていて、何となく周辺まで含めてビルを建てようとしているのだという雰囲気があった。
記事によると、正確な建築年代は不明ながら、大正時代のものと言われているという。銅板貼りの建築は、かなり限られた時期に建てられているようだが、正確にいつからいつまでというのはなかなか特定できない。モルタル仕上げのものはかなり後々まで継続していくのだが、銅板張りは昭和の初期で終わってしまい、以後は作られていないようだ。マンサード屋根と銅板張りの組み合わせが珍しいと記事に出ているが、確かに現存しているところは減っている。かつてはそう珍しいというものでもなかったのだが。

戦後は、洋服の裏地や釦などを扱う店を営業されてきたという。これも、発祥を辿れば日本橋富沢町に遡れる様だ。柳原の通りに古着市が移ってきたことから、この辺りまで繊維関連の店が数多くあった。柳原の通りには今でも、関係する会社やお店が多い。それがこの辺りにまで及んでいたわけである。

来月十月には取り壊されてしまうというのだが、九月十~十二日まで、二,三階の内覧会や昔の写真のパネル展示などが行われるという。八月までここで生活されていたというのだが、家の内部を拝見できる貴重な機会だと思う。問い合わせ先は千代田区観光協会:電話03-3556-0391まで、「柏山邸公開の件」ということで。
ちなみに、昭和16年の万世橋駅廃止前の地図。震災前には、中央通りがなかった。万世橋を超えた通りは少し角度を付けて、この万世橋駅前へと続き、そのまま蕎麦屋の「まつや」の前を通って、九段下へ向かっていた。震災復興事業で大幅な区画整理が行われて、この地図のような形になった。広瀬中佐の銅像は戦後まもなく撤去されてしまい、昭和18年に廃止された駅は甦ることなく、そして交通博物館も平成18年に閉館し、大宮へ移転した。

そして、再開発の名の下に高層ビルの建設が行われている。この場所は東京の中でも一つのモニュメントともいえる場所であるだけに、後々までこれなら良かったといえるような建築物が建てばいいのだが。
これは万世橋のたもとにあった、路面電車の電柱。この場所に店があったりして、電柱が囲い込まれて長い間残されてきた。これも、バイクパーキングが作られて、撤去されてしまった。一説には明治以来の電柱という話もあっただけに、保存して欲しかった。

その電柱に付けられていた看板。電話番号の局番が三桁になっているし、横書きが左書きなので、この看板だけは古いといっても戦前までは溯らない。とはいっても、40年程度は軽く経過しているはずだが。

行けるようなら、柏山邸公開を見に行きたいと思っている。行ければ、このブログでも報告したい。
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