東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

要町から新井薬師へ(14):中野区上高田~段丘上の寺院(三)

2015-09-05 16:16:02 | 中野区
さて、妙正寺川を見下ろす台地の上に集まる寺を見て歩いたが、これが最後。明治末から大正期に掛けて、当時の東京市で行われていた市区改正に伴って、市中の寺院が周辺地区へと移転すると言うことが相当に大規模で行われている。目黒周辺で見たのは、赤坂一ツ木の陸軍施設の拡張で移転した寺院もあった。浅草寺裏に言問通りを通すためというのもあったはずだし、これによって十二階下の魔窟と言われた銘酒屋の集団が、隅田川を越えて移転していって、できたのが玉の井であったりする。市区改正というのは、区画整理や再開発事業の当時の言い方だが、色々と町の姿を変えていたことが分かる。江戸以来の町を近代的な町へ改造していく作業は、震災前にも営々と進められていたのだが、中々進まない事業でもあったのだろう。
さて、願正寺の前の階段を下りきったところ。階段下には、願正寺参道の石柱が立てられている。


その下りきったところを北にいくと、山の上にお寺が見えてくる。


「浄土真宗大谷派 神足寺
(沿革)
 当寺は慶長12年に江戸木挽町に土地を拝領し、行心和上を開基として創設し、月岬山神足寺と号した。
 その後、八丁堀に、西久保赤羽に、三田村(現・港区)にと建立以来三ヶ所を移転したが、三田村においては長く聞法の場として門信徒の教法につとめたが、明治43年、当寺16代憲英住職の時、現在の地に本堂、庫裡をそのまま移転した。昭和33年には本堂の改築がなされた。
 開基の行心和上は百年以上にわたる一向一揆の天正七年に、本願寺11世顕如上人、12世教如上人の二人を中心とする軍勢が織田信長の軍と戦っている時、伊豆の武士で伊東氏として織田軍に加わっていた。その時、織田の陣地に教如上人の書いた手紙が矢に結ばれて射こまれた。ちょうどそこにいた伊東氏は手紙を読んで、信長の軍がいかに誤っていて、本願寺派の主張が正しいかを知らされた。伊東氏は教如上人の意見に感服し、信長の陣をそっと去り、本願寺の味方となり、一揆の後に大谷派の僧侶となり行心と改めた。」(境内の掲示より)


この山門は、以前にも紹介したが、大井の名前の元になった井戸のある古刹、大井町の光福寺の山門であったものを平成20年にここに移設したもの。


美しく整備されて、この地に鎮座している。かつては品川の海を望む地にあったものが、いまは妙正寺側の谷を望んでいる。


昭和33年に再建された本堂。


扁額は年代を感じさせるもの。


寺の裏手にでてみると、金剛寺の裏手の道がここまで延びている。


門前の谷を望む景色。今は住宅に埋め尽くされている。


再び下まで降りて、少し歩くと妙正寺川である。


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