東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

要町から新井薬師へ(13):中野区上高田~段丘上の寺院(二)

2015-09-03 06:01:17 | 中野区
この辺りも寺が固まっているところも面白いのだが、その来歴を辿ってみるのも興味深い。江戸市中で歴史のある寺院が多いので、元あった場所を思いながらみることでその寺と町の結び付きを感じることも出来る。寺の集まる中、奥へと進んでいったところで、黒い山門が目に入ってくる。境妙寺である。


「当寺は元日蓮宗に属し、高耀山寂光寺と称して麹町地獄谷の地にありました。寛永6年(1629年)御城廓造営の時、千駄ケ谷(現・国立競技場所在地)に移転しました。元禄11年(1698年)天台宗に改宗しました。台宗開基は貞栄、一説には、日蓮宗不受不施派弾圧によるものと言われています。安永年間には紀州家の下屋敷が千駄ケ谷にあった関係か、紀伊公邸霊堂の別当に命ぜられました。そのために今でも、本堂の瓦には葵の紋があり、徳川家ゆかりの寺などに見られる黒門が寺門となっています。天保5年(1834年)中興十世智順の代に大雄山普照院境妙寺と改称しました。のち大正4年(1915年)明治神宮外苑造営の折、現在の地に移転し今日に至ります。当寺に保管されている過去帳には塙保己一の名があります。塙保己一は、和漢に通じ40年を費して『群書類従』を完成させました。」(「天台宗東京教区」サイトより)


東京市内の区画整理や道路建設のために移転した寺もあれば、この寺は明治神宮外苑の造営のために移転している。今、注目されている国立競技場を含んだあの辺りにあったお寺であったわけだ。


さらには、寺の歴史にの中には日蓮宗の不受不施派への弾圧も経て来ているという。


大正14年に移転してきたと言うことは、この辺りでは新しい部類かもしれない。


更にその奥には、金剛寺があった。曹洞宗のお寺で、元々は文京区の小日向にあったお寺。今でも、坂道の名前にその名を残している。


そして、金剛寺坂と言えば永井荷風の生家があったところ。荷風にとっては、馴染み深い寺であったことだろう。


このお寺は、戦後に地下鉄丸の内線の工事にともなってこの地へと移転している。お寺の裏手は、ちょっと面白い雰囲気で細い道が延びていた。


境妙寺の前に戻って道を進んでいくと、段丘を下る階段にでる。


この階段の途中に山門があったのが、願正寺。


「当寺は、天正十八年(1590年)に開基である法樹院安養坊了善法師が外神田に創建したもので、本尊に阿弥陀如来を奉る。開山当初は光瑞寺と号していたが、のち本願寺に属し、寺号を願正寺と改めた。寛永の頃は麹町にあったが、江戸城の外濠を造るため、延宝八年(1680年)牛込原町に転じ、明治四十三年(1910年)に現在の地へ移転した。」(「中山石渠」サイトより)


ここは明治末に移転してきた一連のお寺の一つ。外国奉行・新見豊前守正興とその父親で大阪町奉行を務めた新見正路の墓があることから、駐日アメリカ大使がここを訪れている。日米友好の証しとなっている。


段丘の斜面にあるお寺。


武蔵野の寺という趣も感じられる。


境内は綺麗に整備されているが、味気ないものではない。

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