東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

要町から新井薬師へ(12):中野区上高田~段丘上の寺院(一)

2015-08-30 10:19:05 | 中野区
早稲田通りから北寄りに町中へ入って行くと、落合の斎場がある。この辺りの寺町化というのは、この斎場を中心にする形で発想されているのではないだろうか。目黒でも桐ヶ谷の斎場を取り巻くように寺町が形成されていた。桐ヶ谷の斎場は歴史が古いモノだが、こちらも江戸時代にここに移されてきたものらしい。さて、その奥には幾つかの寺が固まっているので、見ていく。まずは功運寺。大きな山門がまずは目に入ってくるお寺。


「萬昌院功運寺は、道元禅師の教えをまもる曹洞宗のお寺です。大本山は永平寺・總持寺です。昭和二十三年までは久寶山萬昌院と竜谷功運寺という、べつべつのお寺でした。久寶山萬昌院は、戦国武将として有名な今川義元の子今川(1月)長得が天正2年(1574)に佛照圓鑑禅師をまねいて半蔵門の近くに開きました。その後、いくどか移転し、大正3年(1914)、牛込より中野に移りましたが、三年後の大正6年に本堂が焼失してしまいました。竜谷山功運寺は、慶長三年(1598)に、永井尚政が父尚勝・祖父重元のため、黙室芳誾禅師をまねいて桜田門外に開いたお寺です。尚勝・尚政の親子は、徳川家康につかえて活躍した大名です。功運寺がいくどか移転をし、三田からいまの場所に移ったのは、大正11年(1922)のことです。」(「功運寺」サイトより)


二つの寺が合併しているというのもユニークだし、やはり大正期に都心部から移ってきているというのも、この辺りのお寺に共通した東京の事情が感じられる。寺の歴史を感じるような、石仏などもある。



境内はこんな雰囲気。幼稚園も併設されている。


本堂は年代を感じるとまでは言えない感じだけど、趣のあるもの。


お寺といわれて思い浮かぶようなイメージ。裏の墓地には、吉良家の墓所や、この近くに暮らしていた林芙美子の墓もある。


その隣にあるのが宝泉寺。この寺も牛込から、明治41年にここに移ってきたという。


この寺は仁王門が見所。


駒込吉祥寺の末寺であったそうで、元は16世紀の創建ということで、東京では歴史あるお寺の一つ。


境内はさっぱりと整備されている。


ここの印象としては、華美というよりは簡素な趣があって、でもそれはそれで良さを感じさせるという感じ。


唐破風は大袈裟で権威主義的といえばそうなのだが、こんなスタイルだと、威圧感はあまり感じない。


開きの扉がつけられた本堂のガラス引き戸。良い感じ。


境内の隅には、これもこの寺の長い歴史を感じさせるような、石碑や古墓石などが集められていた。


寺の横手は裏に向けて石垣が積まれている。この奥の先は崖になっていて、妙正寺川の谷になっている。

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