東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

要町から新井薬師へ(10):中野区上高田~早稲田通り沿いの寺町その一

2015-08-16 16:46:40 | 中野区
早稲田通りを歩いて行くと、山手通りと交差する上落合二丁目の交差点に出て、さらに進んで行くと寺がやたらに集まっている事に気付く。この裏手には、落合の斎場もある。そんなお寺を一つずつ見ていくことにしよう。この辺りは中野区になっている。早稲田通りを西に向けて更にいくと、最初に右手にあるのが、正見寺。


15世紀に滋賀で、駒井城主が創建したのが始まりという。その後、江戸に移り、赤坂、四ッ谷と移転した後に、明治42年に当地へと移ったそうだ。どうも、この辺りの寺はこの時期に都心部から移ってきたようだ。戦災で堂宇を焼失し、昭和46年に現在の本堂が出来たという。(「猫のあしあと」サイトより)


目黒辺りでも、同じ時期に都心部からの寺院の移転が行われている。あまりそういうまとめを見たことがないのだが、明治の寺の移転派どんな施策の元に行われていったのだろうか。


境内の様子。整然と整備されている。


その少し先には、青原寺があった。山門が立派なのがまず目を惹く。


この寺は、芝愛宕の青松寺の初世で太田道灌の師である雲岡舜徳禅師によって開創されたという。明治42年に北青山からこの地へ移転して来たという。


やはり戦災で焼失しており、昭和46年に本堂徳利が完成したという。


歌碑のようだが、剥落があってよく分からなかった。


境内に小さな御堂があった。


鐘楼も立派なもの。


その先には、源通寺。慶長15年(1615)に神田に創建され、明暦の大火の後に浅草へ移ったという。そして、明治41年に当地へ移転。


同じく戦災で焼失し、昭和45年に本堂が再建されたという。この辺りは、皆同じ様な道程を辿っていることがよく分かる。


そして、その先には高徳寺。この寺も、由緒の複雑な寺。江戸時代に江戸に移る以前に千葉の久留里、その前には上州、更にその前には信州と辿れるようだ。


この寺も、明治41年に浅草から当地に移転している。そして、戦災で焼失しており、本堂は昭和57年に再建されたもの。


この寺は、新井白石の墓所もある。

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