東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

川越街道補完編(二)

2015-10-11 20:45:14 | 板橋区
轡神社の前の道を更に北へ進んで行くと、門前に地蔵尊のある寺がある。専称院という寺。


門前に地蔵尊というのも面白いなと思ったら、この寺、地蔵寺という寺号なのだという。


南無阿弥陀仏の刻まれた石柱。


「専称院
 宗派は浄土宗で、亀嶋山地蔵寺専称院と号し、御本尊は阿弥陀如来です。
 むかし鎌倉時代の武将豊島清光が行基に七つの地蔵を作らせたという伝説があり、専称院の前身は豊島村(現北区)でそのひとつを祀る地蔵堂でした。
 浄土宗の専称院となったのは、宝永年間(一七〇四~一一)に豊島村民臼倉四郎右衛門の要請を受けた裕天上人によって中興され、堂宇の整備が進んでからです。荒川沿いにあったため、寛政十二年(一八〇〇)水害の溺死者の供養塔が建てられるなど、水難者の供養寺としても著名でした。専称院が都市計画道路建設によって豊島から当地に移ったのは昭和十二年ころのことです。
 もともと当地には、江戸時代初頭まで乗蓮寺があり、その後も乗蓮寺に付属する香林庵が残っていました。香林庵は明治七年(一八七四)に区域で初めて公立の小学校が設置された場所ともされています。
 平成十五年三月 板橋区教育委員会」
まさに、その水害での溺死者の供養塔があった。


このあたりは、石神井川がかつては氾濫したというが、それでも荒川とはスケールがまるで違うので、荒川の氾濫原にあったこの寺が辿ってきた歴史は、より厳しいものであったのだろう。


長い歴史を持つ寺らしく、境内には半樺思惟像など、石仏が数多くあった。


境内には御堂が建てられていた。


その隣には歴代住職の墓。


奥には本堂。趣のある建物だが、いつ頃のものかは不明。乗蓮寺が江戸初期までここにあって、その後に中宿に移転し、道路拡幅のために赤塚へと移転していったというのも、興味深い。そして、この場所にやはり道路建設のために、この寺が移ってきているというのも。昭和十二年頃に移ってきたと聞くと、どことなく軍需のための工場拡張や、そのための道路建設だったのではと考えてしまう。


落ち着いた雰囲気。


奥から振り返って見る境内はこんな感じ。

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