東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

文京区本郷四丁目~真砂町住宅

2013-02-27 22:56:20 | 文京区
北区の十条赤羽エリアで、同潤会の住宅を見て歩き、それに伴って同潤会の事を調べている内に、文京区本郷四丁目、旧町名真砂町にあった東京市営住宅のことを思い出した。そして、この真砂町住宅のことを以前にもっと見ておけばとか、記録しておけば良かったという気持になっている。このブログで取り上げてきたような町を歩いて、過去に繋がる痕跡を追い求めるような作業をしていると、もっとあそこを見ておけば良かったとか、ちゃんと写真を撮っておけばというのは、いつもついて回る感情なのだが、この場所についても改めてチェックしていたら、昔からよく知っていたところだった。なまじ知っていると思っていただけに、後からどういった由来のあるところであるかの情報を見た時に、この場所と結び付ける事が出来ていなかった。

東京市営真砂町住宅は、当時の本郷区真砂町にあった右京山を開発した住宅地である。当時の新しい住宅の改良運動などの成果を取り入れ、大正から昭和の初期に掛けて開発された町である。元々は、高崎藩主の松平右京亮の中屋敷が置かれていたところから、その名が付けられたのが右京山。明治維新後は放置されて、草の生い茂った子供らの遊び場になっていたという。
位置と形が分かる様に、まずは「大正・本郷の子」玉川一郎著青蛙房刊より、大正時代の宅地開発前の地図。中央左右に走っているのが、白山通り。右京山、本郷連隊司令部があって、右手には幕府の老中を務めた阿部家の屋敷が見えている。また、上側には講道館、今も同じ位置にあるこんにゃく閻魔が見える。


そして、こちらは昭和16年の同じ辺り。連隊司令部は同じ所にあるが、右京山は宅地化されて、山らしい雰囲気は地図上からは消えている。この辺りは空襲の被害を受けていないので、町割などは今もそのまま残されている。
左を斜めに横切っているのが春日通り。


この連隊司令部の隣に昭和5年に建てられたのが、東京市営独身者向け住宅の清和寮。平成七年まで残っていたのだが、ここまで行く事のないうちに解体されてしまった。以前、このブログで「大正・本郷の子」玉川一郎著を取り上げたが、その中には開発前の右京山の話が出ていた。
「右京山のこと
 本郷三丁目から春日町にむかい、真砂町から少し行くと坂になるが、それから先は、草の生い茂る原っぱであった。
 本郷から小石川にかけての、子供たちの天地ともいうべき右京山であった。戦時中評判になった富田常雄の『姿三四郎』で有名になった「右京ヶ原」は、この土地のことなのだ。
 後には東京市営住宅が出来たり、同じく市ヶ谷の四階建鉄筋アパート清和寮が建ったりして、僅かな空き地が、昔日の右京山のおもかげを残していたが、今は整地され、植樹もされて、小遊園地になっている。
 しかし、私は今でも目を閉じれば、大正の始めの頃の右京山が、広々と限りなく拡がって行くのである。
 暮れから正月、二月にかけての凧揚げ。三月になると、よもぎなどを摘みに行く。
 五月になって入梅がつづくと、右京山のあっちこっちにある窪みに水がたまって、おたまじゃくしの時には、どこにいたのか、蛙がゲロゲロと群がって鳴いていたりしているのを、木綿針で作った鉤に御飯つぶをつけて釣りに行く。
 夏休みに、海や山へ行くのは山の手のお邸の子か、本郷なら西片町の御屋敷町の子にきまっていたから、泳ぎの真似がしたければ、王子の名主の滝か牛込の矢来に近い江戸川公園まで歩いて行くし、たまには電車に乗って日本橋の浜町河岸まで遠征するのもいた。
「浜町河岸にこの間行ったけどさ、芸者が泳いでいやがんの。麦藁帽の上から手拭で頬かむりしンだぜ。日焦けがこわいんだとよ。そんなら泳ぐこたァねえだろ。だけどさァ、白い肌襦袢に、赤い腰巻で、犬掻きよ。水ん中で、こう、パーッとひろがるんだよ、お前。」
 などと伯父の店の若い衆が呼吸をはずませて喋っているのを聞いたりしたが、私は浜町の水練場のことは、行って見たことがないから知らない。
 こうした遠出をしない子たちの遊び場は、右京山ということになる。
 夏から秋へかけての蝉捕り蜻蛉釣り。なぜ蜻蛉を捕るのに、釣るというのかしらと思ったら、
「きまってッじゃないか。メスに糸をつけてオスをとるから、エサでつるのと同じだからさ」
 と、鍛冶屋の次郎ちゃんという子が教えてくれた。お医者さんごっこを流行らしたりするので、町内の母親連に警戒されている五年生であった。
 秋のお月見のススキなんかは、花屋などで買う家などなかった。
 右京山にくれば採り放題で、それこそ馬に食わせるほど生い茂っていたし、雪が降りはじめると、ゆきだるまを作ったり、雪合戦の戦場となった。
 あの頃の東京は、暮れのうちはチラチラと思い出したように降る雪が、正月ともなると根雪となるほど降りつもるのがおきまりであった。
 秋の晴れた午後、右京山の小高い丘の上に立って西の方を見ると、はるかに富士山が浮かび上がるように見えた。
 それが夕方に近くなると、黒いシルエットになるのであった。
 この丘の下の方に、ところどころ、洞穴みたいに凹っこんでいて、乞食が住みついていることがあった。風を防ぐためか、破れた簾がかけてあったりした。子供たちもお互いに無関心をよそおっていた。どっちもかかわりあいを持てば、損こそしても得のない事を知っていたからである。
 その乞食の中に「高尾太夫」と呼ばれた女の老乞食がいた。七十くらいになっていただろうか、ボロボロの着物の裾をひきずるようにして、伯父の家の台所の外に立っていることもあった。
「あの高尾太夫はナ、むかし、吉原で全盛の花魁だったって言うぜ。その頃の病気がアタマに来たんだってサ。いっぺん田舎に落籍されて行ったのが、病気が出て、おん出されてよ、流れ流れて東京に舞い戻ったって話だよ、こないだ田端へ配達に行った時、あすこの火の番小屋で聞いたんだがね、どこまでが本当だか知らないが」
 と、伯父の家の若い衆と、酒屋の小番頭が話しているのを聞いたことがあった。
 絵草紙に描かれた紺屋高尾と、乞食の高尾太夫とではあんまりちがいすぎる・・・・・・。
 この高尾太夫は、歩きながら、いつもブツブツと呟くように、
「モロノーの首は・・・・・・モロノーの首は・・・・・・」
 と、言っていた。
 私がある時、その事を祖母に話し、
「モロノーってなんだい、おばあさん」
 と訊くと、祖母は針仕事の手をやめて、淋しそうに言った。
「それはね、高ノ師直のことだろうよ。お芝居の忠臣蔵の中で、鮒じゃ、鮒武士じゃ、なんて言って斬りつけられる人のことさ」
「じゃァ吉良上野のことなんだね。浅野内匠頭に眉間を斬られたヤツだ。でも、高尾太夫がなぜ師直の首のことを言うんだろ?」
「それはね、きっと、あのおこもさんが、若くて綺麗な頃、歌舞伎を見に行ったことがあったんだろうよ」
 あんな汚い婆さんに、若くて綺麗な頃なんてものがあったのかしら・・・・・・・・・。
 伯父の家には光公と呼ばれる四十四、五の御飯炊き兼雑用の男がいたが、知能指数は四十か五十くらいとでも言うか、とにかく、一つの用事が済んでからでないと、次の用事を言いつけられない人物であった。
 用事を二ツ一度に言うと、アタマが混乱してしまって、どっちも出来なくなってしまうのである。
 その光公が、高尾太夫が来ると、弁当の残りから、いいところだけよりわけて、皿や鉢にとってやったりして、高尾太夫にやっている事がわかった。
「光公は自分も身よりがないので、同情してだよ。やさしいじゃないか。みんなももっと見習うがいい」
 と、叔母に言われて、若い衆たちは頭をかいたりしていた。
「往来の邪魔だ、邪魔だい」
 と、箱車をひいて通りながら、道の片隅に立ちすくんでいる高尾太夫に、小石をけっとばしたりすることもある若い衆もいたからである。
 木枯らしの夜、高尾太夫は、右京山の洞穴の中で死んでいるのを火の番の小父さんが見つけた。六十五、六の小父さんは、
「弁当屋の光ちゃんが泣くだろうな」
 と、言ったそうである。
 そして、春になると、子供たちはその洞穴に近い丘の上から、タンポポの綿毛を吹き上げて、それが青空の果てに流れて行くのを見送るのであった。」

明治維新の後、市中の武家屋敷の多くは政府へ返納されたが、再利用されなかったところは空き家になって、物騒だからと言う事で取り壊されたところが多かった。それらの中には、茶畑になったりしたところもあるが、この右京山のように草の生い茂るままに捨て置かれたところもあった。宅地化される以前の、野趣を感じさせる右京山の様子が生々しく伝わってくる。

菊坂の方から裏道を辿ってくると、真砂町住宅へのアプローチが現れる。大谷石を積み上げた石垣。私は小学生の頃から、ここを通っていた。この中に、仲の良かった幼馴染みの同級生が住んでいたからである。


住宅地の中へ入って、左手に向かうと坂を上る事になる。右京山の上へ、回り込むようにして上っていく。小学生の頃から知っているところなのに、思えば右京山の上へ行った事がなかった。上側へ回り込んで行くと、マンサード屋根のい二階建ての住宅があった。大正12年築の家とのこと。なんだか、とても懐かしく思えてきた。本郷四丁目22。


都心部だけに、建て替えやマンション化など進んでいて、大正時代の家をしっかり手入れして使い続けるのは大変だろうと思うが、往時の町の雰囲気が感じられる。本郷四丁目22。


道路の反対側にも、同じモチーフの家がある。こちらも手を加えながら、オリジナルの雰囲気も残して使い続けられている。本郷四丁目21。


玄関周りも、オリジナルの雰囲気が残されていて、モダンという言葉が似合う。本郷四丁目21。


右手に増築されているようだ。だが、オリジナルの部分も大事に残そうとされている意志が感じられる。本郷四丁目21。


上っていった右手、斜面を開いた公園になっている。清和公園という名前。


右京山の草茫々の様子を想い起こすというには程遠いが、ここが公園になっているので、右京山の雰囲気を少しでも感じられる様な気がする。


清和寮は平成七年に取り壊されたそうで、今は都営住宅になっている。本郷四丁目21。


本郷連隊司令部の跡は、財務省関東財務局住宅になっている。清和公園の低い仕切は、昔から変わらない数少ないものかもしれない。


この家も、大正時代からのものだという。見ていても、手入れが行き届いている事もあるし、デザインがモダンであまり古さを感じない。本郷四丁目20。


逆側から見たところ。板張りの感じが、長い板材を貼っていく、アメリカ風のコテージのような雰囲気を感じる。本郷四丁目20。


上ってきたのと反対側も、道がカーブして下から繋がっている。これも右京山の形取るように道路が造られた名残。


その下側の道。この両側に住宅が造られたのだが、下側にはあまり当時の雰囲気のある建物は残されていない。この写真では右手は清和公園だが、この大谷石の土台の高さで、こちら側の住宅地は道路から少し上がった高さに揃えられていた。


家は建て替えられているが、こんな感じに道路とは高さが違っていた。この並びの今はマンションになっているところに、私の小学校の同級生の家があった。今は越してしまっているのだが、毎朝、この辺りに来て一緒に登校した事を覚えている。彼の家も、中学生の頃に建て直したが、それまでは木造の家だった。それも洋風のちょっと変わった雰囲気の家だったのは覚えている。我が家が、戦前の日本建築で引き違いの玄関だったりしたのだが、彼の家は開きのドアで、木製の扉に菱形の明かり取りの曇りガラスの窓が開けられていたように思う。そして、外壁やドアは木製なのだが、ペンキ仕上げで、やはりどこか洋風のコテージのような雰囲気があった。何しろ小学生の頃の記憶だし、家の周りには木が茂っていたので、全体像がはっきりとは思い出せないのだが、そんな感じだったと思う。建て替えられたのは、昭和50年頃だったはず。昭和46、7年頃から、建て替えられた後の昭和56年頃までは、遊びに来ていたのに、ここが真砂町住宅であったという事など、ついぞ考えた事すらなかった。


白山通り側にも、日本建築の古い家は数軒あった。通りの反対側までが真砂町住宅として開発されたそうだが、白山通り側は旧来の日本建築の家が造られていたのだろうか。今も残されている家からは、そんな印象を受ける。少し、真砂町住宅についても調べてみて、また次の機会に報告できればと思う。

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