東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(35)紀念誌

2013-02-19 21:55:24 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回も引き続いて、氏の母校である江東区立明治小学校についての話が続く。東京には、幾つかのこういった名門小学校というものがある。公立ながら長い伝統を持っており、特別な存在感を持った学校とえいるかもしれない。

「明治小学校の玄関をはいって階段をのぼると、二階には教員室と校長室がならんでいる。南に面した明るい部屋であった。あたりからは生徒たちの喜々とした声がきこえてくる。私たちの子供のころは、教員室というと怖くて近づきがたかったものだが、いまはそうではないらしい。
 廊下の壁面には木の枠のガラス棚がしつらえてあって、そこに収められている文書や図版・写真は、みな学校の歴史を物語るものばかりである。木板「生徒勉強 東京小学校教授雙録」(明治十年、三世広重画)の図は、谷崎潤一郎の母校、阪本小学校の玄関でもみかけたことがあったが、洋風の校舎、和服姿の教師や生徒、教場や運動場の風景などは、東京の初期の小学校のありさまをつたえている。
 校長小林晃先生によると、学校資料は震災や空襲でほとんど焼失したり散佚してしまったというが、展示品をみていると、かなり早い時期から学校の沿革をしめす出版物のあったことかわかる。明治二十三年、同窓会が設立され、後援会とか教育談話会が生まれて、会報や記念誌が編集されている。「明治の園」と題された冊子もあって、教員と率業生有志が教育に情熟をかたむけ、こころをこめて自分たちの時代を見守っていたことを知らされるのである。」

 今回は、近藤氏が母校を訪問しているところから始まった。なかなか卒業した小学校を訪れる機会というのも少ないと思う。自分自身を省みても、卒業以来その校内に足を踏み入れたことはないと思う。学校の前を歩いたことは何度もあるが、同窓会にもご無沙汰しているので、なかなか校内に入る機会はない。まして、昔とは違い、色々な事件が起きてしまったこともあって、学校側も外に向けて開いている存在ではなくなっている。
 そして、江東区は関東大震災、東京大空襲と大きな災厄に度々襲われており、その度に焦土と化した経験を持つ土地でもある。明治小学校は戦災は辛うじて焼失を免れているのだが、周辺はほぼ焼失しており、失われたものは計り知れないものだっただろう。
 現在の江東区立明治小学校。


「建築学の内田祥三(明治三十年卒)は亀住町(深川一丁目)から学校にかよっている。商人の家系に生まれた彼は小憎にゆくつもりだったが、教師に進学をすすめられて一念発起したとある。林学の上原敬二(明治三十六年卒)は三年生のとき、深川公園内の私塾から編入試験を受けて転校、当時流行の軍歌「矢玉霰の雨の中・・・・・・」を教えこまれている。宗教家の友松円諦(明治四十一年卒)は名古屋から上京して霊岸町(三好)の安民寺からかよっていた。京都府知事としてつねに革新の姿勢をつらぬき、「べらんめえの虎さん」といわれた蜷川虎三は、入舟町(木場一丁目)の材木商の息子。映画監督の小津安二郎は学校地内の万年町の生まれで、五年生までここに学んでいる。鹿島組の鹿島卯女(養子鹿島守之助夫人)は島田町(木場四丁目)の大邸宅から深川八幡の境内をぬけ、不動尊の裏の河岸をへて明治小学校にかよっていた。」

錚々たる顔触れという表現が相応しい。やはり名門小学校らしく、後々にその名を広く知られる様な人々を輩出している。そして、その背景にあるものが、この江東の地が豊かであった時代の空気というものを感じるのだ。現在が貧しくなったということではなく、この当時の材木商という存在がどんなものであったのかということなど、今は均質化して住人もサラリーマンとして生きる人が多くなっているのだろうと思う。社会の変容でもあるのだが、辰巳芸者と言われた深川の花街を成り立たせていたものは、材木商の旦那衆という豊かで気っ風の良い存在があればこそだった。そんな人々の暮らす町の空気がこの小学校の周囲には溢れていたことだろう。
現在の明治小学校の校舎。


「小学校が現在のような六年制の制度となったのは、明治四十年のことだった。それ以前は尋常小学四年、高等小学四年(十九年から)だった。初期にあっては半年間の学級制で春秋二回の試験が当落をきめたというし、また成績によっては飛び級もできるかたちがのこっていたから、在学年数は一様ではない。しかしみな少年時代に深い思い出をのこしている。
 追憶談に出てくるのは校舎のたたずまいであり、教師の顔である。少年たちの純なこころはそこに投影されている。この学校は洋風の屋根の上に擬宝珠をおく校舎から三度建てかえられた。明治四十五年、木造三階建てに改築され(「明治の園」三十五週年紀念号はそれが機縁で編集されている)、関東大震災で焼けおちてから、昭和二年にコンクリート三階建ての復興校舎が完成した。まえに記したヨの字型の建物であった。第二次大戦中の戦火にも耐えたそれは、昭和五十七年、みちがえるぱかりの校舎となった。卒業生はそれぞれの時代につよい郷愁をいだいている。」

 学制の変化というのは、なかなか分かりにくくて、その当事者以外には変わり様も理解しづらい。尋常小学校、高等小学校という制度から、六年生へと変わったのが明治40年というのは、思っていたよりも早かったのだと感じた。その後の大規模な変化が、戦後の学制改革ということになるのだろうか。明治から大正辺りの状況というのは、なかなか分かりにくい。女学校の在籍年数などもなかなかスッキリと何年とは分からなかったり、難しい。
 そして、幼い日に六年という永きに渡って過ごす小学校には、やはり皆特別な思いが残るものなのだろう。私の出た小学校は、今も校舎や体育館など、当時と変わらないまま使われている。たまに小学校の前を通って、変わらないその景色を見ると、やはり懐かしく思えるものだ。もし、あの学校が新しく建て替えられたら、随分寂しく思うだろう。中学は建て替えのために校舎が取り壊されるのを見たが、仕方が無いと分かっていても、寂しい気持になった。

「紀念誌六冊を繙読していて興味ぶかかったのは、上原敬二博士が四回にわたって登場していることである。林学はもとより国立公園の設置について大きな功績のあった方で、私は『風景雑記』(大正十四年)『日本風景美論』(昭和十八年)のような著作をとおして啓発されたことがあったが、明治小学校の出身とはついぞ知らなかった。それだけに紀念誌をみていてびっくりしてしまったのである。」

 ある分野で著名な人物の名前を知っていて、その人物が自分の小学校の先輩であったことが分かるというのも、その人がどこか身近に感じられる契機になるし、敬意を抱いていた人物であれば尚のことだろう。こういったケースが色々と出てくるところが、名門小学校の名門たる所以というわけである。
 私は、行きつけのバイク屋の社長と話をしていたら、同じ小学校の先輩だったことが分かったということがある。そのバイク屋は、小学校のあったところとはまるで違うところにあって、何かの拍子に小学校の話になったら、同じ小学校だったという奇縁で、お互い驚いたことがある。同じ小学校というのは、あまり先輩後輩といっても、上下関係があまり濃いわけでもなく、何とも不思議な同郷というのか、そんな感覚で、面白いものだと思う。

「開校百年にあたって母校の座談会(昭和四十七年四月二日)に招かれたときは、八十歳をこえていた。耳がわるくなったので皆さんの顔だけ拝見にきたと語っている。古い話はきらいだから思い出話はあまりしたことがないという。そんなことからほとんど語っていないのだが、つぎのひと言は、世界の森林をみてきた人だけに大きな重味がある。
 ……私どもの仕事からいえば、百年や百二十年はなんでもない。一本の木を植えても、明日、あさってというと十年単位になる。大きなことを言うようですけれど、百年たった木はたいしたものではない。
 日本では、百年、二百年の木は珍らしいが、外国をまわってきて、四百年、六百年の木を見てきました。……
 この上原博士は深川でもどこのお生まれなのだろう。低学年のとき、深川八幡ちかくの私立大谷小学校にかよったというから、富岡町か木場あたりかもしれない。その出自を調べたことはないが、おそらべ材木問屋に育ったのであろうか。その生涯の仕事は自然美の大観をきわめるものであった。造園学者として、自然風景のかたちと人間の精神の調和を求めてやまなかった人である。材木屋の子息さんという連想がわいたのは、紀念誌をたどってみた結果であった。生まれた場所、教えをうけた小学校は、人をつくり人を育てている。」

 やはり、深川というエリアでは、材木商という存在は特別な響きを持っている。単純に材木を扱っていた商人というだけではない、彼らの持っていた存在感を抜きにしては理解し得ないものがある様に感じる。著者の近藤氏は清住町で生まれ育ち、この明治小学校を出ているわけで、深川で材木商の旦那衆が幅を効かせていた時代を感じて生活されていた筈だと思う。気っぷの良さを身上としていた材木商の家から、世界の気を見てきた学者を生み出すというのは、巡り合わせの妙としてはこれ以上はないと言えるだろう。

「この学校について、かねがね解明できずにいたことがあった。それは八月号で書いたように、おなじ建物のなかに二つの学校があったことである。こちらは男子校、となりは女子校である。東京の公立小学校のなかでもほかには例をみなかったとおもう。私は「男女七歳にして……」云々と儒教のしきたりをおもいうかべたが、実はそのおもいこみはまちがっていたのである。
 百週年記念誌によると、明治尋常高等小学校は、新校舎の完成する一年前の明治四十四年四月、高等科を分離して、となりに新設された明川高等小学校に移している。というは義務教育六年制が実施されたためであった。大正九年になって明川が西永町(平野二丁目)に移転、その旧校舎を明治小学校の女子生徒と臨海小学校の女子の一部がつかうことになる。校名は明治第二尋常小学校だった。震災後の再建で珍らしいヨの字型の校舎が出来上ったというわけだが、男子校、女子佼ともに明治小学校であった。しかし別物のような気配もただよっていた。
 女子が分かれたというのは教育上の理由ではなかった。むしろ教室の数とか就学児童数などによる物理的な事情からであった。明治小学校の盛名をきいて、区域外からどんどんと希望者がふえてくる。越境、寄留させてでも子供を入れたいという親があらわれてくる。そこで悲鳴をあげたのが学校当局であり学務課の吏員であった。前記の座談会のなかで星諦誘(大正三年卒)や一又正雄(大正九年卒、早大教授、法律学)は、当時このあたり一帯は、材木、肥料、米穀問屋の全盛期で、財閥の子弟にはおのずと上品さと華かさがあったことをあげている。その上、学校後援の同窓会の活躍もはなばなしく、寄附あつめでは金額の多さに眼をみはるほどだったとある。中産階級の定着は教育の普及のなかで下町人の心意気にもなってあらわれている。長谷川如是閑が書いていた「町内送り」の時代からみると、わずか三、四十年で時代の好尚はどんどんとすすんでいる。そのような動きを背景に学校は二つに分れたのであった。
「明治小学校は歴史が古い。上流家庭の子弟がいるということに加えて、これは父親が寄附を求められる時つぶやいた事ですが、『なに、学習院に負けられるか!』といった、下町の人の心意気というか、平民の心意気というものが、学習院との対抗意識として心の底にあったようです。」
 一又正雄の発言はこんなぐあいに記録されている。

 この辺りの事情は、何となく分かる。東京の名門小学校は公立なので、地元の学区内の児童が入学するだけではなく、周辺の他のエリアからも学区内の伝手を頼って住民票を置かせてもらったりして、入学すべく手を尽くすものなのだ。私自身、以前このブログでも書いたが、地元の小学校には通っていない。親の思いがあって、他の区の公立小学校へ通った。そういう子供はそれなりの数がいて、通学時には同じ小学校へ通う仲間が何人もいたものだった。こういったことが、明治の末頃から行われていたということの方が、私には驚きでもある。寄留というのは、この住民票を置かせてもらうことで、学区の関門をクリアすることをいう。私の通った小学校では、全体の三割位は区域外からの生徒ではなかったかと思う。
 大正頃の深川で、材木の他に肥料、米穀問屋の全盛期であったということの裏側に、この学校の周辺の佐賀町や福住町が倉庫の町であったことを想い起こさせる。福住町の澁澤倉庫は、大規模な米問屋の倉庫を買い取ったことから、倉庫業を始めたという経緯がある。木場に代表される材木問屋だけではなく、江戸以来の倉庫の町、物流の町であった深川一帯がその成り立ちのままに、発展していた時代であったことを感じる。
 そして、最後の学習院への対抗意識というのも、なかなかに面白い。今でこそあまり聞かなくなってしまったが、かつては下町の人達の山の手への対抗意識といえば、並々ならぬものがあった。江戸時代には、町人の二本差しへの対抗意識であったものである。明治になると、武士は廃れたが、その後に富裕層が下町を捨てて移り住んでいったこと、また、薩長の新政府の官僚などが多く住んだこともあって、より一層下町の山の手への対抗意識は高まっていったのだと思う。その真骨頂とも言える様な、学習院への対抗心と言える。

明治小学校の裏手。


「子供たちが帰って行ったあとの学校は、きわめて静かである。私は壁面の歴史的な展示品を喰いいるようにみつめながら、廊下を行ったり来たりする。内田祥三博士の文化勲章も、その勲記も、さりげなく木枠のなかに納まっている。博士は東大工学部教授として震災後の都市計画、耐火建築の推進に大きな貢献をした人だった。安田講堂はその代表作だ。戦時中は東大総長をつとめている。
「勲章は小学校においていただくのがいちばんいい、と御遺族は言われましてね。このガラス戸もそっくりおなじように作って下さいました」
小林晃校長はおだやかに語るのだった。

叙勲を人生の目標に掲げるというのも、今となってはどこか時代掛かった印象も受けるが、立身出世という価値観が分かりやすかった時代
を感じる。とはいえ、複雑化して価値観の基準ばかりが問われ続けていく様な現代より、様々な生き方があることが分かった上で、シンプルに世間に認められることの価値を打ち出せていた時代の有り様というのは、改めて見直すと眩しくも思える。

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