さて、落ち穂拾いシリーズは最初の順番に従って、神保町から。それに一ツ橋の裏手の景色を加えていこうと思う。撮影日は1981年11月8日と1982年2月16日。現在の画像は2010年10月23日と2011年5月29日、6月4日。
神田神保町二丁目17番。まずは神保町~その一に掲載した加藤釣具店の隣,駐車場になっていて、その隣は有斐閣の倉庫。さくら通り沿いのお店の背中が見えている。生活感があって、生き . . . 本文を読む
さて、千代田区も大詰めで外神田である。秋葉原といった方が通りが良い辺りでもある。神田明神下からかつては青果市場のあった辺りまで、幅が広い。今は市場跡には高層ビルが建ち、この頃静かだった通りはパソコンショップの時代に隆盛を極め、今はサブカル系の店が増えて様相を変えていく。この写真を撮った頃の秋葉原は、随分とのどかなものだったとさえ思える。
二丁目15番。明神下の一角。廣橋製版印刷。これも昭和の神田 . . . 本文を読む
今回のエリアは、台東区に接する辺り、神田川よりも北側で昭和通りよりも東側という一帯。商業地域で、小規模な店舗や会社が多かった。といって、神田駅に近い辺りや岩本町などとも違う雰囲気で、様々な業種が集まっている印象があった。撮影日は1982年2月1日。現在の画像は2011年5月18日19日に撮影。
神田佐久間町二丁目5番。昭和通りから入ったところ。株式会社岡村の駐車場越しの景色。今は会社ではなくなっ . . . 本文を読む
東神田と言われても、どことなくピンと来ない。大体こういうつかみ所のない町名は、役所が勝手につけた町名である。今は埋め立てられて姿を消した竜閑川沿いに広がるエリアである。浅草橋と日本橋馬喰町に隣接する。岩本町と同様で、繊維関係の会社が多い。撮影日は1981年1月31日2月1日。現在の画像は2011年5月18日。
一丁目3番。繊維街の中の一軒。大東新聞印刷株式会社千代田支社とある。隣には株式会社元丸 . . . 本文を読む
須田町は、かつて東京でも最も繁華な場所としてその名を知られた町であった。だが、私の少年時代(昭和四十年代)でももうそれはあまりピンと来ないイメージでもあった。それは、東京中に路線を張り巡らせていた都電の路線がこの交差点にかなりの数が集中して、一大ジャンクションになっていたからであった。東京メトロ銀座線の神田駅の地下道が不自然に長くこの交差点まで延びているのも、ここが要衝であった痕跡である。ここで取 . . . 本文を読む
さて、引き続き岩本町。もともと、この町は様々な商品の問屋が多い町だったようだ。その一方で、古くは柳原と呼ばれた神田川沿いの辺りは明治の頃から古着で知られた町であり、今でも繊維関係の会社が多く並んでいる。かつて神田川から枝分かれした運河であった竜閑川を空襲のがれきで埋め立てた跡に、神田繊維街という問屋がずらりと軒を並べていたのだが、これも今は往年の勢いを失っている。撮影日は1982年1月31日。現在 . . . 本文を読む
さて,今回からキャプションに町名と番地まで入れておくことにした。前の分も逐次修正していく予定。分かりやすいキャプションにするように気が付いたら改善していくつもり。ただ、結構な分量になってきているので、修正がだんだん大変になってきているけど。
続いては岩本町。町名に神田の冠がないと言うことは住居表示が終わっていると言うこと。つまり昔からの町名ではなくなっていることを示している。元々からの神田岩本町 . . . 本文を読む
さて、今回はJR神田駅の東側で昭和通りよりは西側という辺り。町名は多いけど、この辺りは古い町名が残されているせいで、エリアとしてはそれほど広いわけではない。当時の写真を見ても小さな会社の事務所といった風情で、どちらかというと地味な町並という印象がする。この辺りは戦災にはあまり遭わずに済んだようで、昭和初期の建物が多い町が残されていた。面白いのは、紺屋町が南北に別れていること。これは歴史的な経緯でそ . . . 本文を読む
千代田区久し振りだが、まずはJR神田駅から日本橋方向へ行った辺りから開始。この辺りは鍛冶町という。ちなみに鍛冶町には一丁目から三丁目があるのだが、三丁目だけが神田鍛冶町で、一,二丁目はただ鍛冶町という。これは住居表示の実施が終わっているところは、神田の冠を外しているということからこうなっているそうだ。ちなみに神田美倉町は住居表示未実施ということになる。撮影日は1982年1月31日。現在の画像は20 . . . 本文を読む
さて、神田神保町の続き。今回は三丁目。
この辺りは江戸時代は武家地だった、大正二年に岩波書店がこの地で成功を収めたことから、書店の町として栄えてきた。近隣に大学や各種学校が置かれていったことも書店街の栄えるバックボーンになったことだろう。ある程度の敷地面積が必要とされる学校が置かれたのには、そこがある程度の規模の武家屋敷であったことも起因している訳である。この周辺も含めて神田駅まで歩いて見ると、 . . . 本文を読む