goo blog サービス終了のお知らせ 

東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

千代田区神田神保町~その三、一ツ橋

2011-06-01 17:16:41 | 千代田区
さて、落ち穂拾いシリーズは最初の順番に従って、神保町から。それに一ツ橋の裏手の景色を加えていこうと思う。撮影日は1981年11月8日と1982年2月16日。現在の画像は2010年10月23日と2011年5月29日、6月4日。

神田神保町二丁目17番。まずは神保町~その一に掲載した加藤釣具店の隣,駐車場になっていて、その隣は有斐閣の倉庫。さくら通り沿いのお店の背中が見えている。生活感があって、生きている町という感触がある。この当時は、出版社が神保町に倉庫を持つことに意味があった。いかにも書籍の倉庫らしい建物の表情。今は倉庫はなくなり、集英社のビルと救世軍本営も入る神田神保町ビルになっている。


一ツ橋二丁目4番。この辺りは岩波書店に集英社、小学館と出版社が軒を連ねている。前にも書いたが、岩波書店がこの地の草分けである。その出版社の建ち並ぶ裏手。手前は岩波書店営業部、その奥は光文社の一ツ橋倉庫があった。奥に見えているのは共立女子学園、右手は千代田区立一ツ橋中学校。今は岩波も光文社もビルを建てている。


一ツ橋二丁目5番。神保町よりに引いて見た景色。喫茶バンブーが目立つ。後ろに小学館ビル、バンブーの並びは岩波書店の倉庫。一ツ橋の白山通りの直ぐ裏とは思えないほど、寂しげな感じ。今はここも岩波一ツ橋ビルが建っている。ビルが増えたこともあって、これほど空の抜けを感じることはない。


一ツ橋二丁目5番。この町の主と言っても過言では無かろう、岩波書店。この当時の社屋は旧東京高等商業専攻部、今の国立一橋大学の校舎であった建物だった。大正5年築、RC2(三階増築)、遠藤於莵設計、藤本清次郎施工と建築要覧には掲載。東京最古の鉄筋コンクリート造りとの記述もある。


一ツ橋二丁目5番。岩波書店の入り口。扁額の揮毫は夏目漱石とのこと。漱石の著作刊行が岩波書店の成功に繋がり、神保町を書店の町へと導いた。


神田神保町二丁目11番。さくら通りに戻って、東洋キネマを過ぎた並び。手前から僅かに写っているパーマネントのパリス美容室、コーヒーに軽食のジュネス、高橋靴店は上の方に靴橋と書かれているが、屋号だったのだろうか。当たり前に看板建築が並ぶ通りだった。今は大きなビルが造られている。


神田神保町二丁目21番と23番の間。左手が23番。さくら通りから路地を左に曲がって抜け、振り返って見たところ。カスタムテーラーシンドー。右には三輪という看板が見える。三輪は麻雀。今は右手はサクラホテル神保町、左手もビルになっている。


一ツ橋二丁目6番。その抜けた通りの反対側は一ツ橋。田中紙業株式会社、アートナップ株式会社東京営業所,そしてモルタル塗りの長屋が続く景色は変わらない。


神田神保町三丁目13番。さくら通り沿いの靖国通り側にあった笠井運輸。二階は中山書房東京営業所。今は集英社の大きなビルになっている。


神田神保町三丁目17番。これもさくら通り沿い、前の写真の通りの反対側。右から理容石井、平和商会は写真店、電柱にはモンマ洋服店の広告。ここも集英社のビルになっている。前のカットとは道を挟んだ反対側だけど、今は同じようなガラス張りのビル。


神田神保町三丁目11番。さくら通りもかなり奥まで来た辺り。手前の店の表札には日本佛教新聞社と書かれており、うらら会ピアノ教室という看板が出ている。向こうには池嘉運送の看板も見える。


神保町三丁目17番。通りを越えて、三丁目へ。神保町~その二で掲載している「いせや」の向かい側のもう少し奥へ行ったところ。ますみ美容室、手前の横を入ると綱井金属彫刻所。職人町だったのが分かる。今は大きな集英社のビル。


一ツ橋の裏手を加えて、落ち穂拾い。出版の流通も色々変わっているようで、今はこの頃のように神田に倉庫が必須ではなくなっているらしい。新刊書籍や雑誌は良い話を聞かないが、古書店はしっかりやっているように見える。いかにデジタルの時代といえども、これまでに出版されてきた膨大な書物がデジタル化されているわけではない。人類の財産である古書を扱う店には元気でしたたかに生き抜いて欲しい。画像追加2011.6.4


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。