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弥勒祐徳100歳展



いつだったか、友人が言った。「神楽に出かけたら、弥勒さんが絵を描いていた。舞い手に神が降りるはずだけど、降りていたのは弥勒さんの上だった」。
そう、この人には本当に降りているのかもしれないと思うときがある。私の小さなギャラリーでも、3度程展示会を開いてもらった。展示会の前に自宅そばの「弥勒美術館」に足を運び、絵を選び車で運んだ。小さなギャラリーなので100号ほどの大きい作品が3枚、50号が1〜2枚、10号が10枚から15枚ほどでいっぱいになった。
今回宮崎県美術館県民ギャラリーで開かれた100歳展は、案内パンフでは100展以上とあった。それもほとんど100号以上のもの。2枚続きのものもあれば3枚続き、あるいはもっと大きなものもあった。展示会には多くの人が関わり、大変な作業がだったと思うが、たくさんの方が観に来られていた。

水彩の時代、蛾の時代、寒川の時代、祭、女、神楽、花と風景、桜、太陽などとテーマごとに分けて展示してあった。昨今、テーマでよく知られているのは神楽や桜、太陽といったところだろうか。ある程度観ているつもりであったが、蛾の時代、女、を観るのは初めてのこともあり、蛾と女が強く印象に残った。写真を紹介できればいいのだが、そこは無理。断りを頂いて撮影したギャラリー風景のみだ。蛾の時代のキャプションには次のようにあった。

絵を描いて27年。夜になると夏から秋にかけて灯に飛んでくる蛾、その蛾は見事な模様の美しさである。また、異様の美しさである。また異様な眼は不思議な旋律を感じる。

そう!、蛾は本当に異様な美しさだ。怪し気な美しさを秘めている。それを追求された頃の絵は、最近の絵から想像できない程、絵の具は荒めのキャンバス(あるいは麻袋か)に厚くもられていたが、不思議と厭味はなく、どこかクレーの絵に近いものを感じた。特に「群蝶」と題された絵は、その思いが強かった。


蛾の時代




寒川の時代が、弥勒絵画の根底にあるのではないかという見方が多いが、そうなのだろうと思う。寒川は、西都市山間部にあった集落だ。1989年に住民が離村し廃村となった。私も二度ほど村を訪ねたことがある。一度目は廃村になる前。この時は訪ねたというより、バイクで山間部を走っていて小さな集落に出くわしたと言った方が正確だ。多分、廃村寸前だったのだろう、二人の方が道ばたで西都原古墳祭りに使うというワラ靴を編んでおられた。2度目は廃村になってから。寒川よりもっと奥に行った帰り。床が抜け落ちた家屋は植物に呑み込まれそうで、人の気配は無く、やはりどこか寂し気だった記憶がある。

弥勒さんの絵に思うのは、自然に対する畏敬だ。寒川集落に象徴されるように、旧来から続いてきた山村集落や農村集落は、戦後の消費文化の到来以来急激に姿を変えてきた。特にグローバリスム時代になると、変化というより崩壊に近くなってきた。「今だけ、金だけ、自分だけ」の世界とは対局にある「地域」が持つ豊かな世界が描かれている。そこでは人と人がつながり、世代と世代がつながり、自然とつながり、はては人と動物がつながり、植物とつながっている。失われ行く世界への郷愁ではなく、人が本来失ってはならない世界なのだ。


「西都原の太陽」の前の弥勒さん、その後ろには奥様の肖像画

ところでもうひとつ気になった「女」。美人としてではなく、性(さが)としての女性。特に印象に残ったのが10号程の作品の中のひとつ。それは、どこか早稲田小劇場で名を馳せた女優・白石加代子さんが演じる女性そのものであった。生き物としての女性の本質を見抜かれていたのだろうか。

100点を超える作品を観るのは疲れる。もう少し絞っても良かった気がするが、今回は100歳という人生の大きな節目を迎え、画業を振り返る記念の展示会だ。会場出口には、99歳で描き上げたという100号の大作「西都原の太陽」がかけられ、その前で、本人がTVのインタビューを受けられていた。それにしても、その横にかけられていた奥さまの肖像画は、比べようもなく気高く見えた。この人あっての「弥勒祐徳」だったのかもしれない。
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