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壱岐・対馬行/その7(壱岐・月読神社)

厳原港近くにあった消防団倉庫の壁画


フェリーターミナル前のハングル看板


朝鮮通信使絵巻部分(フェリーターミナル)


月讀神社の石段


3日目の朝を迎えた。対馬から再び壱岐だ。朝、お宿から厳原港へ向うと川の中に小魚が見える。すぐ港の近くなので多分海の魚だ。港近くの消防団倉庫の壁に壁画があった。その近くに気になっていた大きな岩肌が見えた。立亀岩(立神岩)だという。島人はこの岩を見て対馬を旅立ち、里帰りの時はこの岩を見てふる里に帰ってきたと安堵するのだそうだ。
さて、厳原港からは、ジェットフォイルではなく、普通のフェリー。時間はかかってもこちらの方がゆったり気分だ。対馬にさよならして海をわたること約2時間15分、壱岐の芦辺港に着いた。
そこから向ったのは、行ってみたかった月讀神社。今は全国各地に月読神社があるが、ここが元宮だそうだ。祭られているのは、月読命、月夜見命、月弓命である。あと先になるが、頂いた由緒の月読命の項には次のようにある。「読むというのは月齢を数えることであり、日を数えるのは暦(太陰暦)である。したがって月読と稲作、潮の満ち干とは大変係がある。」と。そして御神徳のところには、生命の誕生と共に農業の繁栄(自然界では、旧暦の暦と共にある)もあった。最近は全く太陽暦一辺倒だが、太陰暦の大切さを知ったのはつい最近のことだ。ある時竹を数本切ったが、どの竹も水分たっぷりで、置いておいたらみなカビてしまった。竹の伐採は水揚げが止まる秋口から冬までの期間で、それも新月の時が最適なのだそうだ。種を蒔くにしても、苗を移植するにしても、月が関係しているようだ。太陽暦オンリーでなく、太陰暦も見直してみる必要がありそうだ。
というようなことで、大変関心を持っていた。元宮であり、「日本神道発祥の地」とも言われている。バスは石段の下の鳥居の前で停まった。添乗員が石段をしきりに気にしていたが、少し急なだけで何のことはなかった。登ってお参りした後、ここで思わぬ出会いがあった。記念にお札を求めようとした時だ。中に座っていた若い神官が「どちらからですか?」と声をかけた。「宮崎です」と応えると、「私も宮崎生まれです」と言う。私たちの言葉が気になっていたのだ。宮崎はどこですか?と問うと、佐土原ですと言う。えっ!、私も佐土原だけど・・・。佐土原のどこかと問えば、どこそこのどこそこ・・・と応える。何と奇遇なことか、同郷の方であった。聞けば、奥さんになる人と都会で知り合い、奥さんの所に婿入りしたのだという。私の住む宮崎市佐土原町には、今から約200年ほど前の江戸時代、全国の諸山を巡る修行に出た野田泉光院という人がいた。修験者で当時のトップクラスの知識人だったという。全国を托鉢して歩き、『日本九峰修業日記』という旅日記を残した。そこには当時の庶民の姿がありありと書かれていたため民俗学上貴重な史料とされている。そのなかには、各地で旅をしている同郷人と会ったことも書かれている。今に劣らず、江戸時代の庶民も旅が好きだったようだ。尚、野田泉光院の家系からは、6代後に現代美術の父とも言われた瑛九(えいきゅう)が出ている。「佐土原」捨てたものではない。
月讀神社にさよならした後、海の見えるお食事処で昼食。屋外からは遠くに平戸島など見えた。これでツアーでめぐる観光は終わった。後は、最初に着いた印通寺港から唐津港へ最後の船旅だ。普通のフェリーなので気持ちもゆったりだ。九州が近くなって来ると、左手には糸島半島、右手には神集島などを眺めることができ、予定通り唐津港に着いた。あとは唐津市東部にあるおさかな村でお土産を調達して一路宮崎へ。途中、久留米を過ぎた辺りから西の空に夕陽が美しく、何枚か写真を撮った。


壱岐・対馬にさよなら


金銅製亀形飾金具(一支国博物館パンフより)


旅の終わりの夕陽(車窓より)


初めて訪ねた壱岐・対馬だった。ほとんど行程にそって書いたが書き残したことも多い。また、集団でのツアーでは仕方ないかもしれないが心残りも多い。一支国博物館では余りに時間が短かかった。ここでは金銅製の金銅製亀形飾金具や金銅製単鳳環頭大刀柄頭やト骨あるいは人面石などゆっくり見たかった。
現在、世界中コロナで大変だが、旅行業や宿泊業などの大変さも痛感した。特に対馬は、韓国からの旅行客が年間40万人にも達していたという。しかし今は、日韓関係の悪化と新型コロナのせいで全くのゼロ。大きな痛手を被っている。朝鮮半島との関係修復とコロナの終息を願うばかりだ。今回、元寇のことや朝鮮出兵のことを除き、白村江、防人、あるいは倭冦のことなどには全く触れなかったが、今回の旅行で朝鮮半島との歴史も少しばかり頭に入れることができた。有意義な旅だったということで、旅行記を終えたい。
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