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田原坂

右上が雲をたなびかせている雲仙普賢岳


田原坂西南戦争資料館に出かけた。以前にも一度訪れたことがある。少しおどろおどろしい陰湿さが頭の片隅に残っていた。九州自動車道で近くを通るたびに寄ってみたい思いはあったが、頭の片隅の陰湿さが足を遠のかせていた。しかし、近くに行く機会があったので、意を決して寄ってみた。
資料館の周りは、田原坂公園として整備され資料館もきれいで見やすくなっていた。駐車場も広く、大型観光バスもやってきていた。資料館に入る前、すぐ脇にある展望デッキから正面の景観を臨んだ。意外にも、政府軍が陣や砲台を構えた正面の丘の向こうに雲仙普賢岳が顔をみせていた。正面の丘の手前の低地には田んぼの向こうに鹿児島本線が走り、左手に見える山の斜面が緩やかで景観はとても雄大で美しくあった。
それだけであればいいのだが、ここは西南戦争最大の激戦地だったところだ。資料館に入り、展示物やスクリーンに映し出される戦いの場面は、やはりどこかおどろおどろしかった。

元々の田原坂は、熊本城をつくった加藤清正が戦略上北の守りとして作った要衝のようだ。坂道は周囲より低く、両側から狙撃しやすいようにつくられ、その上、先が見通せないように曲がりくねっていた。そこに薩摩軍が陣を敷き、突破しようとする政府軍と死闘をくり返したのだ。官軍を迎えうつには絶好の場所だったのだろう。しかし、この戦いに破れた後は、大津や御船などでの激突を経て、薩摩軍は人吉、宮崎、高鍋、延岡へと転戦、西郷隆盛らは日向長井から可愛岳を突破した後、九州山地を経て故郷鹿児島の城山で散った。

田原坂を訪れ、西南戦争のことを少し読み直してみたが、西郷隆盛という人物がどうもよく分からない。なぜ装備も前近代的で軍艦も無く、軍資金の乏しいまま参戦したのか、負け戦が確実になった時に講和は考えなかったのか、そしてなにより、戦いで被害を被る市井の人々のことはどう思っていたのか・・・・。

宮崎県は当時は鹿児島県に組み入れられ、西南戦争末期には戦場となり、軍資金不足から作られた「西郷札」などで大変な被害を被ったのだが・・・・。











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