男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

長野県の清水家

2017年05月06日 | この名字のルーツは?
大崎城(長畑城)城主 清水氏(仁科氏一族あるいは被官)の後裔
戦国期に大町市常盤清水長畑に大崎城がありました。城は現在の昭和電工長畑発電所の上方の尾根先にあり、本城の平と二の曲輪からなる小規模な砦でした。城主は、仁科氏の一族あるいは被官といわれる清水氏で、明応10年(1501)の文書に清水石見守盛好の名前があります。居館のあったという内堀付近(鎮守・神明社の東南方)には石見守の墓といわれる五輪塔が残っています。

主君・仁科氏(桓武平氏)
平安末期に、壇ノ浦の戦い(元暦2年“1185”山口県下関市)で桓武天皇より12代目平 清盛の一族が滅亡しました。清盛の孫・維盛の子・盛則が信濃国安曇郡横瀬(長野県大町市八坂)に住み、横瀬氏を称し、代々孫三郎を襲名しました。のち仁科孫三郎を称し、伊勢神宮領の荘園「仁科御厨」(御厨=みくりや:神領、一般的には伊勢神宮領)と皇室領の荘園「仁科庄」(長野県大町市)を治めていた古代豪族安曇氏の支族・仁科氏と合流し発展していきました。

鎌倉時代には、安曇郡一帯を治める大豪族となり、 仁科氏の城館「天正寺館」を中心に京に倣った都市計画が進められ市場町が形成されました(現在の大町市街の原型となります)。現在の大町市と北安曇郡、安曇野市にわたるその領国のうち、大町市の大部分にあたる仁科の庄を直轄領とし、ほかの大部分は一族の者や被官にそれぞれ分割して、統治を委せていました。一族の者は仁科家に生まれ育った人たちで、いわば分家をしたことになるわけだが、任地に居館をもち、近くの山に山城を構え、地名を姓とするようになりました。そして古くからその地のあちこちに勢力を張っていた在地土豪(多くはそこの開拓地主であろう)を寄騎としました。在地土豪たちは乗りこんできた仁科氏一族を寄親として、自分たちの土地の安全の保証を頼むことになりました。かれらもほとんどが居館とその近くの山に砦を構えていました。

室町時代になるとしだいに仁科氏の勢力が衰え、大町市域は、中世末期に一時武田氏の支配下になり、天正10年(1582)武田氏没落後は小笠原貞慶(松本城主)の領することとなりました。

仁科氏一族や家臣たちは、武田氏や小笠原氏等に仕えた後、一部は近隣に帰農し田畑を開拓して徳川期を迎えました。一部は大庄屋や庄屋(名主・肝煎)等を勤めました。

「被官」・・・室町幕府の守護は国人層を多数被官化して勢力を強め、戦国大名は被官化した土豪を家臣団に組み入れて統制力を強めた。

日本家系調査会
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