男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

徳川家に出てくる家系の法則

2009年04月30日 | 家系鑑定とアドバイスなど
誰もが知っている徳川家について、家系に流れる不思議な法則を分かりやすく説明します。
徳川家康公は享年七五歳。当時としては長生きしましたが、正室のほかに側室やそばめという多くの妻がいました。正室の立場は単なる看板みたいなものですから、女性の多くの恨みを買った家系と言えます。
また、家康の長男の信康は若くして父に切腹させられました。家康が信長に要求されたためというより、家康と信康の対立が原因という説が唱えられるようになりました。いずれにしても情の関係は、まるで恩讐のようです。結果的に長男は死んで跡継ぎになれませんでしたから、弟の秀忠が二代将軍として立っていきます。
孫の代の徳川長丸は長男で二歳にして夭逝しました。 そこで二男の徳川家光が三代将軍になります。家光も多くの側室がいたことで知られています。
四代将軍家綱の父は家光。母は側室のお楽の方ですが、竹千代の幼名を与えられ世子となりました。延宝八年、病に倒れた家綱は、末弟の徳川綱吉を養子に迎え将軍後嗣とし、直後の五月八日に死去しています。享年四〇歳でした。
しかし、五代将軍綱吉にも世継ぎが立たず、家綱の弟である綱重の子、家宣が六代将軍に就きます。このへんの代を見ると、お世継ぎ(男子)が立たず、やっとつないでいる家系であることがありありと分かります。
六代将軍家宣は五一歳で他界し、いよいよ七代目の代に大きな節目を迎えてしまいます。家宣の子は、正室が生んだ女子も側室が生んだ男子も、次から次と幼死し、残ったのは家継一人。四歳で将軍になるも、わずか八歳で他界してしまいます
そこで、お家断絶予備軍である御三家の一つの紀州から吉宗公が八代将軍に就いたので、何とかその後、一五代まで存続できたわけです。じつは他のさまざまな家系を見ても徳川家と同様に、三代、四代、七代という節目があるのです。
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