夢色

集めてるもの 見たもの 書きたいものを 思いついた時に。
基本ネタバレ注意。
火月 神の気まぐれ よろずメモ。

<それでも、貴方の笑顔は 世界を変えられる。>

2016-01-17 | つれづれ

あの日から21年。

1995年1月17日 午前5時46分発生。
死者6,434人
行方不明者3人
負傷者43,792人。


マンションで家族4人。
私は父の隣で、襖を隔てて 隣の部屋に母と弟が寝てた。
真っ暗闇の中で、あんなひどい揺れは初めてだった。 
父が「地震や!地震や!」って叫んで、私に覆いかぶさってた。
父的には、私の隣にあった母の嫁入り箪笥が倒れて来ないように私を守ってたつもりらしいけど、私としては「地震なんは 言われんでも分かっとるわ!てかオトンの重さで潰される~っ!重い~っ!!!(☄ฺ◣д◢)☄ฺ」ってなってた(笑)

何で地面が揺れるのか 
水に溺れたら地上に上がればいい
空を飛べずに落ちるなら 地上に下りればいい
この足で歩いて行けばいい
それなのに
足下が 大地が 
それでさえ 不確かだとすれば
いったい自分は 何を信じ 何に心安んじれば良いのか
そう思って 怖かった
呆然として
涙が出てきて
でもトイレから出てきた弟の気配に、姉の自分が泣いたら弟が怖がるから 泣いちゃダメなんだって そう思って布団被ったままで涙をぬぐって 素知らぬ顔をした。

それだけは鮮明に覚えてる。

TVを付けても まだ事の次第を誰も把握してなかった。
広島に電話したら、「なんでこっちで地震があったのを知っとるん?!」ってビックリしてた祖母。
大阪も揺れたけぇ~ って母が喋ってた。

朝、小学校に行くとき、マンションの壁が一部はがれて落ちていた。
学校は休校になって、先に弟が帰って来たけど、母に信じてもらえず(自業自得?笑)
私が帰って来たのを見て、ようやく本当に休校だって信じたらしい(笑)

私は中学受験の願書を出す日だった。
もちろん親が行ってくれたんだけど、着いたら1番乗りになっちゃって、私が1番だと緊張するだろうから他の人が来るまで待ってたんだって。 

東日本は津波が。
でも阪神では火災が。
どうしようもなく沢山の人を 連れて行ってしまった。 

春休みに広島の祖父母の家に遊びに行くときもまだ、新幹線は全線開通してなくて、ブルーシートで被った灘の町並みを見ながら、混雑したローカル線を乗り継ぎ乗り継ぎ、向かった。
途中の乗継駅で、小澤征爾さんを見かけたんだっけ。



関西はもともと、地震はあまりない地域だったから、少しの揺れでも大騒ぎ。
でも、あの震災は、私でさえ トラウマになってたみたい。
大学の授業中、トラックが近くの道を走った時、搬送台車が廊下を通った時。
微妙に揺れるその振動に、はっ!って気付くのはいつも、関西の子ばかり。
阪神大震災を経験したことのない、他県から来た同級生は、なんでそんなにビビってんの?って笑ってた。
・・・私たちは、言い返すことをしなかった。

その時 私は、「この世の中には、経験したことのある人にしか分からない何かがある。」ということを、忘れないでいようと決めた。
天災であれ、戦争であれ。 
人が笑顔だからって 何も思っていないわけじゃない。
人にはその人の、他人には見せない抱えたものが あるかもしれない事を、忘れちゃいけないんだって。


時が流れて、東北が揺れたあの日。
職場はまったりと落ち着いた昼下がり。
控室で同僚たちとTV観ながら喋ってた。
めまいのような 不快感。
きっと私は、自分が思ってる以上に相当顔色が変わってたんだろうね。
後日、北海道出身の上の先生から、「なんで神ちゃん、あんなに怖がるんだろうって不思議に思ってた」って言われた。
一足早く時短で帰った後、TVで揺れる映像や津波を見て初めて、あぁ、なんで神ちゃんがあんなに怖がってたのかを、理解したんだ、って。

東京は日本の中心。
時代もネットの発達も全然違うけど。
東北の震災があってから以降、毎年美談のように 絆きずな・・・と言い続ける様を、どこか冷めたように見ている自分も居る。
・・・阪神が傷付いたあの時に、果たして東京はここまで必死になっていたんだろうか。
あの時TOKYOは、私たちに何をしてくれていたんだっけ、って。
節電だと言ってはアーティストを非難し、同日誕生日のお祝いのコメントを載せる人には不謹慎だと非難し。
自分たちが思う絆の輪に手を貸そうとしない(と信じる)相手に対して、非国民の如く非難し、復興へと足並みを強調するけれども。 
1.17で抉られた私たち西日本の傷跡を、彼らは考えたことがあるんだろうか。
どっちが正しいとか悪いとかじゃなくて、何かをして欲しいということでもなくて。

自分が見ている世界が 全てだとは思わないで欲しい、ということ。 

何事においても。 


そう思う私だって、あの日に地獄を見た人達には、ちっとも及ばない。 
毎年この日に、喪章をつけていた同級生。
私の知り得ない時間。
だから、私も全てだとは思ってない。
だけど私は、これからも生きていく。


21年。
あの日、大切な人を失った方が 東北の震災にお手伝いに行った先で、「そんな昔のことなんて、知りたいと思わない」。
そう言われて傷付いたんだと。

あの日に生まれても居なかった若い子にだって、ちょっと考えてみてもらいたい。

例えば私たち、Vの6人に出会えて毎日生きる糧をもらってる。
去年、その6人が互いに出会った11月1日に、なんて尊いんだって、言ってたよね。
この20年に感謝してたよね。

「そんな昔のこと」だと言えるのかな。
自分の大切な人が生きてきて、自分と出会った その20年と、
もう会えない大切な人を想いながら 誰かが耐えて生きて来た20年とが、
違うなんて言わせない。

どんなことでも、自分に関係のない事だと、思わないで欲しいんだ。
きっと私も、どこかで、誰かを、傷付けている。
それについては、ゴメンナサイって言うしかない。

上手く言えないけど。

人には人の、それぞれのキズがある。
人にとってはどんなにつまらない事でも、大小さまざまな傷がある。
それを抱えながら、みんな生きてる。
それは他人から 自分から
見えなくなったとしても、無くならない。
一生死ぬまで、一緒に抱いて、生きていくものだから。 
それでいい。

毎日捉われながら、生きなくたっていい。
そんな事言ったら、毎日誰かの悲しい日になる。
だからたまには、傷口に目を向けて、悼んであげたら良い。 

皆、今ここで生きてる。
それでいい。

なんとなく、そんな事を思った日。 

また明日から、すべての人たちに 安らかな時間が巡ってきますように。