山風景とデジタルコラボ+α                                   

コンテンツ作製のため、山風景等を素材にして様々な試みを綴ってみます。

木食応其 (最終回)

2013年03月03日 | 歴史ネタ
こまりました!
応其は、誰(複数かも)を供養したのでしょうか?

あれこれ考えてみることにしましょう。
まずは慶長元年の年表から。

ここから考えうる
一つ目の仮説が、サン・フェリペ号事件に端を発し処刑された二十六聖人の供養塔ではないか?



キリスト教への弾圧がはじまり、京都で囚われたのが1596/11/15
引き回しのうえ長崎へ送られ(送られたといっても一月間かかって、自力で歩かされたのだが)
磔処刑されたのは、12月になってからです。
前年にも、甥の秀次を自害に追いやるに至った秀吉の暴挙を、高野山の応其は窘めることができなかったんですね。
そんな自戒の意味も含めて建てた。

もう一つが、慶長元年(文禄5年)閏7月13日 【改元した年は、新しい元号で呼ぶのが通例】
慶長伏見大地震の犠牲者を供養したものではないか?

最初の伏見城(指月山城)だけでも600人の死者がでたようです。
応其が現場監督として携わった方広寺大仏殿でも、大仏が急造のため木造造りであったことが災いして、高さ19m大仏は崩れ落ち、開眼供養が延期になったのです。

(1999梟の城画像)

当然、建設に携わった関係者で命を落としたものも大勢いたことでしょう。よって、これらのための供養塔ではないか?


そもそも豊国廟となる以前の戦国期の阿弥陀ヶ峰山頂付近は山城のあった場所

となりますと、豊国廟や豊国社が建つ以前の山城跡に五輪塔を建てること自体、不思議な話です。
大仏殿付近に建てたものを、後年に移設したとも考えられますがね。


まあ いずれにせよ、豊国廟中門の右手の平地に五輪塔は建っていますので、皆様の目でご確認ください。


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