森かずとしのワイワイ談話室

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続 考 アイデンティティ

2008-05-21 23:52:25 | 森かずとしの子育て・教育相談室
 半沢さんが、さらに「日本的アイデンティティ」をコメントされましたから、私も、忘れがたい出会いを述べて、「日本的アイデンティティ」の多元性を後付けしてみたいと思います。
 あのアジア蔑視が風潮であった時代に、北崎可代さんは、開拓団員の妻として、旧満州に渡ります。一望千里に畝が走る入植地の前に立って、これは誰かが耕してきた土地に違いないと直感します。案の定、元の農夫が使用人となって北崎夫妻の営農を支えます。可代さんは、中国人農夫に心をかけ、手厚い待遇に心を砕きます。そんな可代さんを引き上げの混乱で死なせるわけにはいかないと、中国人農夫たちは、半ば無理矢理に可代さん母子を連れ出し、虎の徘徊する山中を3ヶ月間さまよい歩きます。中国人と逃げた非国民を捜し出せ!と開拓村民が山狩りをします。日本人の女が金を持って逃げている、草の根分けても探せ!と現地中国人もおいます。口のきけない中国人として一年暮らし、周恩来首相の計らいで助産師の資格を得て、中国農村のい衛生向上に献身します。
 8年間の中国生活から帰国した可代さんは平和町に住み、中共で洗脳された女と偏見にさらされながら、帰国孤児の生活支援、通訳、日本語教師として、そして平和運動家として、最晩年まで歩み続けました。私は、その最晩年の10年足らずをご一緒しましたが、よく口癖のように、「私は、侵略の片棒を担がされた。取り返しのつかないことだ。」と言われました。その贖罪に残りの生涯をかけられたのです。強い信念は慈しみの心となって、生きざまから滲み出る姿に、深い尊敬の念を抱かされました。

 もうひと方は、東京の医師湯浅謙さんです。1993年だったと記憶しますが、全国運動として「731部隊展」が巡回されました。金沢でも実行委員会が組織され、わたしも代表として関わりました。その際に、細菌戦実験や生体実験が医大、軍病院などで行われたことについて証言していただくために、集会に湯浅謙医師を招きました。彼は、7人の中国人捕虜を生体解剖で殺害し、敗戦後山西省大原の戦犯管理所に収容されます。そこで認罪教育を受け、人間的な罪の意識を回復させます。戦後は、償いの半生を証言者として送っていきます。当然、右翼団体から非難、抗議を受けます。ある時、面と向かって右翼活動家を名乗る男から、恥さらし!お前のようなやつは非国民だ!と罵声を浴びせられます。湯浅さんは毅然として一喝します。「あったことをあったことと認められないで、悪かったことを悪かったことと認められないで、何が日本人か!」80半ばを過ぎる湯浅謙さんは、今も現役の証言者として、人生のすべてをかけておられます。

 「日本的アイデンティティ」を「日本人の誇り」と言い換えると、誇り高き生き方とは何かを深く考えさせられるお二人との出会いでした。現在の私をも支える一期一会でありました。 

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