>「受験刑務所」化している学校がある。 > 多くの学生が大学で学ぶ目的を持てないでいる最大の要因は偏差値的に「いい大学」に入ることのみを目的にした、行き過ぎた受験勉強にある。
そうですね。’いい大学’ とは、序列順位の高い大学のこと。これは、偏差値を利用して決められる。同次元で序列が決められる。だから、個性がない。大学の教育内容などには関係がない。
日本人社会の序列獲得競争を盛んにして、受験勉強が盛んに行われていますね。何よりも序列順位が大切であると信じられていますね。理由は無い。盲信です。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。’上とみるか・下とみるか’ の判断ができなければ、日本語会話も満足なものにはならない。
また、日本人の礼儀は序列作法になっているので、世俗の上下判断を心得ていなければ、礼儀正しい日本人にもなれない。社会ののけ者にされる。
人を見損なってはいけないという想いは、日本人においては強迫観念の域に達していている。反面、理性判断のようなものは受け付けられない。理性判断と序列判断が両立しないからである。
> 有名大学への合格者数を競うような私学や受験産業のゴールは、とにかく東大に合格させる、早慶に合格させることで、大学に入ってからの接続など何も考慮されてはいない。
そうですね。受験産業には、人間教育をする目的はありませんね。
>だから、ゴールを達成してみたら、そこで何をしたらいいのかが分からなくなってしまう。
そうですね。手段と目的を取り違えていますね。わが国においては、個人実現という目的が、高等教育という手段によりなされていない。入試という手段が目的化 (現実) していて、真の目的 (非現実・考え) である人格の形成は見失われていますね。どうしてそうなるかというと、目的は哲学 (非現実) で、手段は技術 (現実) であるから、無哲学・能天気の日本人は、現実ばかりに気を取られて真の目的は想定外になっていますね。
>大学は課程に過ぎない。しかし、受験脳は学ぶ本質を封鎖してしまう。
そうですね。受験という処世術ばかりが発達していて、人格形成の本質を封鎖されています。だから、日本人は、無哲学・能天気の人間になっていますね。
>実際私の友人にも、有名大学に進んだが、やりたいことではないとやめた人もいる。
考えることが、学生のやりたいことではないのですか。それとも、大学内での専攻を間違えたということか。これは、例外か正常か。もし正常であるならば、この国の方が例外でしょうね。
>大学入試制度が変わることで教育がどう変わるのか? 注目していきたい。
あなた自身の教育改革に対する内容はどのようなものですか。他力本願・神頼みなのでしょうか。
教育を変えるには、日本人の序列争いをやめさせる方策を講ずるのが近道ではないでしょうか。
また、時制のある文章内容が書けないと世界観が持てないので、批判精神が育たないですね。これは、日本人の大きな欠点になっていますね。
時制のある文章内容は、独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を描くことを可能にします。ですから、自分自身の ‘あるべき姿’ の世界を未来時制の内容として描くことが可能になります。これを基準にして現実を批判すれば、批判精神を得ることができます。
時制は、英文法にあって日本語の文法にない。我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、言語における時制の大切さを十分に理解して、自己の考えを文章内容として表現すべきでしょうね。そうすれば、現在の入試制度の弊害を打開することも可能になるでしょう。
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