>以下(http://agora-web.jp/archives/2034779.html)より引用します。
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>小学校、中学校、高校と12年間、時間数にして2000時間以上も国語を学んだわりに、わたしたちはぜんぜん書くことも読むこともできないとは、どういうことでしょうか。
読み書きに不自由するのは、日本語の性質にあると思いますね。
>●国語が国語になっていない状況
>戦争文学を国語で指導するのは、戦争の悲惨さを伝えるためでしょうか。 >ある職業の実態を知る文章を読んで、いろいろな職業があると気づくためでしょうか。 >科学の説明文を読んで、科学の知見を広げようというのでしょうか。
>たしかにそれもあるかもしれません。 >けれども、これでは国語は「道徳」や「理科」や「社会」になってしまいます。
日本語は、’写生画の言葉’ と言われていますからね。言語で自己主張はできないでしょうね。
>つまるところ、学校では「言語をあつかう技術」を子供たちに身につけさせていないのです。
日本語の文章を取り扱う技術(文法)が未発達だからでしょう。
>言うならば、国語の授業が、他の教科、道徳や社会や総合的な学習の時間になってしまっています。
そうですね。国語の授業が、写生画の時間になっていますね。
>国語以外のすべての教科は、国語の基礎の上に成り立ってると言っても過言ではないのですが、その国語が、「思考するための方法」ではなく、「なんらかの価値観」を押し付ける教科となってしまっています。
そうですね。文章内容の正しい解釈がなおざりにされていますね。和歌や俳句も国語の時間に出てくる。これらの歌は、ばらばらな単語であり文章にならないから、意味がない。それを忖度 (推察) で先生が押し付けの解釈して見せる。忖度は、聞き手 (読み手) の勝手な解釈であるから、話し手 (書き手) には何の責任もない。議論にならない。ただ、言いっぱなしになる。独りよがりの結果として、忖度を誇りに思う風潮を養うことになる。孤立無援であるから、国際的な理解が得られない。
>●「国語の教え方」のわからない教員は多い
>小学校の教員のなかでも、国語が苦手な教員は多いです。>なにをどうやって教えていいのかわからないからです。>教師が教え方を知らない教科の筆頭が、国語なのです。>国語は、まかり間違えると総合学習のようなイメージでとらえられてしまいます。>表やグラフを与え、説明させたり、議論させたりする授業も多いです。>算数、理科、社会と思えるような授業も多いです。>しかし、このような授業をやっていては、子供たちに国語の力はつけられないでしょう。
そうですね。子供たちは、自分が何を言っているのかわからない。文章構文が確立していないと、意味・意義の確立は考えられませんね。
>学校は、「論理的に思考する方法」を身につけることに、まったく頓着してきませんでした。
そうですね。
言語は、文章を通じて著者が自分の意味・意義を語るもの。
非言語の内容は、感覚を通して経験者が意味・意義を得るもの。非言語の作品には、音楽・絵画・造形美術などがある。忖度・推察の内容は、非言語の授業の対象範囲になりますね。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するためには、文章の内容を理解しなければならない。だから、’考える人’ になる必要があります。
現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。考える必要は無い。頭を使う必要がない。正解は一つである。この方法だけを使って生活すると、無哲学・能天気の状態になります。
>●実際の教室では
>国語の教科書を開くと、当然たくさんの文章が載っています。>物語であったり、説明文であったり、随筆であったり。>しかし、それをどう教えるかはわかりません。>そのため、教師は「指導書」といわれる「台本」に頼ることになります。>この「指導書」も曲者なのです。>そこには、「言語をあつかう技術」も「論理的に思考する方法」も出てきません。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。だから、正しい考えは、人によって違っている。正解は一つではない。幾らでもある。だから、個性豊かな社会ができる。
矛盾を含む文章も、その矛盾を取り除けば、正しい考えとなる。だから、対話・議論は正しい考えを得るための重要な手段となっています。
>この「この文章はこのように味わうのだ」「味わうべきだ」ということが詳細に書かれています。
それは、先生による忖度 (推察) の押し売りでしょうね。忖度は読者の勝手な解釈であり、著者には何の責任もありません。従いまして、議論の対象にはなりませんね。’趣味は、論拠にならない’ です。There is no accounting for taste. 忖度を発展させて、独りよがりの人間になることのないようにいたしましょう。
>「文章を正確に読む」ということには、頓着されていません。
そうですね。これでは、読書も作文も台無しですね。
>また、書くことに関しても、「こういう方向性で感想文を書くべきだ」ということは書いてありますが、どうしたら伝わる、読んでもらえる文章になるのかということは一切ふれられていません。
Thesaurus (分類語彙辞典) を使って、適切な単語を選ぶようにすると良いですね。
>このように、国語は「言語をあつかう技術」でも「論理的に思考する方法」でもなく、「ある価値観に沿った読み方・書き方」を教える授業になってしまっています。
そうですね。写生画の言葉の特性でしょうね。国語の授業では、’侘び・寂’ などを解説などもするのでしょう。これらは、忖度・推察ですね。正しい理解を得るための議論にはならないですね。
>●国語力がつかない国語の授業
>このため、子供たちは正確に文意をとることができず、また論理的な文章を書くこともできず、大人になってから慌てて「ロジカルシンキング」などの本を買い込むことになります。
そうですね。 司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>このように、「価値観の押しつけ」と化している国語では、国語力が向上することはないですし、もしかしたら、文科省は、人びとが文章を読んだり書いたりできなくすることを狙っているのかもしれません。
>ただたんに、なんにも考えてないだけだと思いますが。
そうですね。ただ単に文部省の役人は、無哲学・能天気であるだけですね。
>逆にいうと、国語力が向上する真の勉強法をほとんどの人がやっていないので、それを実践するだけで、大きなチャンスかもしれません。
外国人に日本語を教えさせてみたらどうですかね。匙を投げるか。
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