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原発の再稼働

2019-05-19 10:44:48 | 政治

>019年4月8日、原発メーカーである日立製作所の会長で経団連会長でもある中西宏明氏が、原発の再稼働や新増設を提言する発言を行いました。 >その提言では原発の再稼働が遅れていることが問題視され、そのために電力の安定供給に疑問が生じコストも高くなっていること、化石燃料を使う火力発電への依存度が現状で8割を超え環境への負荷が予想されること、再生可能エネルギーについては送電網の整備が遅れていることなどが指摘されました。

関係者の怠慢が示されたのですか。

> 反原発を主張する動きについては、安全対策を尽くしているのに地元の自治体の理解がえられないといった非難を行い、反原発を掲げる団体からの公開討論の申し込みについては、「感情的な反対をする方と議論しても意味がない」とそれを断ったことが伝えられています。

説得力が足りないのですね。

> 正直、その中西会長の言葉を聞いた時には「福島での事故についての責任をどう考えているのか」と私が感情的な反発を覚えてしまったことを白状しておきます。

それは、太平洋戦争での敗戦についての責任のようなものですね。

>そもそも、東京電力福島第一原発の事故についての検証が終わってないのに、長く原発推進の立場にあった当事者が日本経済における重要な地位を占め続けていること、原発メーカーの当事者としての立場からの発言をその肩書きで行うことには、違和感を覚えます。

事故後も当事者の権威の失墜は無かったのですね。兎角、この世は無責任。

>それと同時に、一部の反原発運動にかかわる方の主張が感情的で、「議論しても意味がない」と感じさせてしまう点については共感を覚え、自分の心が混乱をしているのを感じました。

歌詠みになるのでしょうね。それは、わが国の伝統ですから。

> 多くの人が「面倒くさい」と感じて、日本の原発、そしてこれからのエネルギーをどうするのかを考えることを諦めてしまっているかのようです。

そうですね。思考停止ですね。無哲学・能天気の日本人の特性でしょうね。’我々は、何処に行くのか’ を考えられない。

>その結果、2011年の事故が起きて8年以上の月日が経つのに、本格的な議論は進んでいません。

日本人には、議論は難しいでしょうね。ご唱和の会ならできると思いますが。

> 私はこの現状に強い危機感を覚えます。

そうですね。思考停止による危機ですね。

>原発推進派と反対派が声高に自分たちの主張を述べるだけで、それらが噛み合った議論になりません。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾を含んでいない文章は、全て正しい考えを表している。だから、正解は一つではない。考えは、人それぞれである。だから、正解はいくらでもある。
矛盾を含んだ文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えを表すものになる。だから、対話・議論は、正しい考えを得るための役に立つ。

>いかに相手の主張を潰すかに夢中になっているように思います。

手段 (潰す) の目的化が起こっていては、建設的な話し合いができませんね。

> 本来は同じ国に暮らし、将来を一緒に作っていかねばならない国民同士のはずです。>それなのに、未来に向けたビジョンを共有しながらも、それぞれの立場の違いを認めながら、「日本の良い将来を作るためにどのようなエネルギー政策を選択するべきか」という主題を離れずに議論を続けることが全くできていません。

そうですね。無哲学・能天気な国民にあっては、’我々はどこから来たか’、’我々は何者であるか’、’我々はどこに行くのか’ などの哲学的命題は、想定外になっているでしょうね。

>すぐに目の前の議論での勝ち負けに夢中になってしまい、その議論がどこを目指すべきかということを忘れてしまいます。

そうですね。未来社会の探求が目的にはならず、そのための議論 (手段) が目的化していますね。

> 中西会長の言葉で共感するのは、感情的な発言に終始するのは望ましくないという点です。

日本人は議論が出来ないのだから、感情的な発言に終始せざるを得ませんね。歌詠みの会合のようなものになりますね。

>それならば、中西会長ご自身も、反原発の立場の方々への感情的な反発を煽るのではなく、原発を再稼働することが望ましいという根拠を、数字を用いて示していただきたいと考えます。> 東京電力福島第一原子力発電所事故でどれほどの損害が生じたのか、それが明確にされなければ議論を進めることができません。

そうですね。数字がなければ、議論はできませんね。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

>もちろん、事故で失われたものの中には、お金に換算できないものも多く含まれています。>それでもやはり、経済の専門家であり日本経済における主導的な立場から再稼働について発言されるのならば、事故によって生じたコストについての評価を示していただきたいのです。

コストの評価を示すべしですね。

> 私は東京都出身ですが、2012年4月から福島県南相馬市に暮らし、原発事故の影響についての見聞を広める機会がありました。> 地域のコミュニティが蓄積していた富がどれほど失われたのか、想像もつかないほどです。> 除染や廃炉や賠償にこれまでどれくらいの費用が生じてしまい、この先もどの程度の予算を計上する必要があるのか、明確にしないままでは国の将来が危ういと感じます。>コストについての妥当性のある数字が示された上で、原発再稼働についての感情的ではない議論が可能になるでしょう。

妥当性のある数字が必要ですね。

>それを欠いたまま議論するのは、放射線の健康被害についての、実際の被ばく「量(数字)」についての考慮が行われていない議論と一緒で、感情的で無意味です。

そうですね。歌詠みは、大和民族の特性ですね。

>HPに続く

天皇制

2019-05-19 05:57:35 | 政治

(略)
> そもそも、共同通信が5月1日と2日に実施した世論調査では、〈天皇に親しみを感じる82・5%〉に対して〈感じない11・3%〉。>今どき天皇制に反感を持ち、デモに参加する面々は、どんな人たちなのだろう。>「30年前のXデーを経験した世代、高齢の方が多いですが、若い方もいますよ」 とは、主催した市民団体「おわてんねっと」の女性メンバー。>曰く、名前や年齢は明かせないそうで、「デモには500名ほどの人たちが参加してくれました。>数が多くて具体的には把握していませんが、様々な職業、思想を持った人間が集まっています。

言論の自由ですね。考えは、人さまざまですからね。

>反差別や反戦・反基地活動を行う人もいますが、皆に共通するのは、“戦争責任がある天皇の退位を、国やメディアがこぞって大騒ぎするのはおかしい”という主張です」

日本人には、意思がない。
意思のない人には、責任がない。
兎角、この世は無責任。この国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。

日本語には、階称 (言葉遣い) がある。
‘上とみるか・下とみるか’ の判断は欠かせない。天皇を頂点とした序列に名を連ねて存在感を得ている。心の支えとなっている。
日本人の序列に加わることで、日本人社会に対する帰属意識が湧く。これが何よりも大切なことである。非国民・外人にはなりたくない。みんな ‘うちの人’ になりたい。だから、この島国から出てゆけない。総玉砕ならできる。

日本人は序列に基づく帰属意識が気になって仕方がない。だから、天皇に親しみを感じる人も・感じない人も、自分たちの歴史を歴史として認めることが難しい。自分たちに無縁なものとはどうしても考えられない。客観性がない。
これは、英米人が理性を気にかけるのと同じであろう。理性がなければ、きちがい沙汰である。何事も話にならない。

(略)
>「週刊新潮」2019年5月16日号 掲載


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立身出世主義

2019-05-19 04:45:34 | 教育

> 戦後の日本の教育内容ですが、戦中とは全く反対の内容に切り替わり、戦前の立身出世が全面的に押し出される形になりました。

序列志向に変わりはありませんね。

> GHQ(連合国軍総司令部)によってそれまでの日本の国家主義と呼べる内容は殆ど除外され、アメリカの民主主義的な教育内容に変化したのです。

それは、良かったですね。

>■日本を解体したアメリカ
>日本が敗戦後にアメリカをはじめとする連合国らに占領されたことで、それまでの学校の教育内容などは全く別物になりました。>アメリカの狙いというのは日本が再びアメリカや西洋諸国に反抗できないようにするために徹底した武装解除などを行い、日本を洗脳・支配することでした。

またもや、洗脳教育ですか。皇民化教育の時と同じ手法によるものですか。

>その中で特に注目するべきなのはそれまでの日本の国家主義教育の完全な排除でしょう。> 事実、占領後しばらくの間は日本の小学校などで使われていた教科書の中の軍事・天皇に関する部分を黒墨(くろすみ)で塗りつぶさせ、読めなくさせていたこともありました。>また、新聞や雑誌・ラジオなどのメディアにおいても厳しい報道規制がかけられることになり、原子爆弾の投下やアメリカなどの連合国を批判するような内容は徹底して禁止されていました。> 要するに欧米の植民地支配に最後の最後まで抵抗し続けたアジアの大日本帝国という存在を、もう2度と復活させないようにするための解体作業を施すのが連合国側の狙いだったのです。

それは、良かったですね。

>■教育の民主化
>では教育内容はどうなったのかと言うと、戦中の「お国の為に」という日本の合言葉はすっかり消え去りました。

そうですね。国がなくなったわけではないのですがね。

> 日本を占領したGHQが日本の教育の民主化を打ち出し、日本国民に対し「教育を受ける権利」を日本国憲法に記したのです。

GHQにより、我々に権利が与えられたのですね。

> 厳密には占領軍の代表格のアメリカの教育制度が日本にも取り入れられ、義務教育の年数や高等教育機関の年数などもアメリカと同じになりました。> 小学校6年・中学校3年・高等学校3年・大学4年という年数も、GHQの決定により決まった事なのです。

わかりました。わが国も、アメリカ式の教育制度になったのですね。

> 次に教科書の仕組みも大きく変化することになりました。 > 今までは日本の政府が教科書の内容を決めて国民に何を教えるかを独占していたのですが、日本の敗戦後は検定教科書と呼ばれる教科書に変わり、各出版社や知識人らが自由に教科書を作成できるようになったのです。

教科書は、為政者の都合の良い内容にはならなくなったのですね。良かったですね。

>そして、この教育の民主化により変化した教育制度というのが今現在の我々の受けている教育内容と言えるでしょう。> 国家主義思想というのが排除されたことにより、それまでの義務教育制度の1つの側面である個人の立身出世主義というのが全面的に表に出てきたわけです。

日本人の個人主義 (individualism) は、ともすれば利己主義 (egotism) と混同されがちですね。

> 一部の経済的富裕層や教育ブームに影響を受けている人々たちの間で流行の「お受験」や「偏差値主義」などがまさに代表的な例といえるでしょう。

そうですね。処世術 (conduct of life) の過熱ですね。日本人には、処世術 (現実) があって、哲学 (非現実) がない。だから、時流に流されます。

> 要するに、日本の義務教育の原点である学制は個人の立身出世主義を市民に植え付けることで就学率を上げてきましたが、戦時下ではそれが排除されて国家主義になり、敗戦後は完全に国家主義が排除されて元に戻ったということです。

そうですね。’もとの木阿弥’ にかえったのですね。
わが国は、立身出世主義が盛んですね。それは、’上とみるか・下とみるか’ の判断が盛んであるからでしょう。
どうしてそれほどわが国に序列判断が盛んであるかといえば、それは日本語に階称 (言葉遣い) があるからではありませんか。’上とみるか・下とみるか’ の判断が正しく判断できないと、日本語の日常会話にも不自由します。
わが国の礼儀作法も序列作法に基づいているために、世俗の上下判断をはっきりと心得ていないと礼儀正しい日本人にもなれません。
’人を見損なってはいけない’ という想いは強く脳裏に焼き付いていて強迫観念の域に達しています。ですから立身出世主義は国民の一人一人が望むところであり、我が国においては廃れる様子がありません。
日本人は、現実を信じる。だが、非現実 (考え) を信じない。目で見ることのできる内容は ‘本当’ のことであり、見ることのできないものは ‘嘘’ である。序列は現実の中にあり、あるべき姿の内容は、非現実の中にある。立身出世主義は序列争いであり、現実の中にある。理性的な人間は考えであり、非現実の中にある。立身出世主義と理性主義はその所在が違うので、同次元では考えられない。現実の内容と非現実の内容が想定できれば、その中庸も論ずることが可能になる。教養ある人になる。現実ばかりでは、議論はできない。唯一の正解を信じるほかなく、閉塞感がある。
英文法には、時制 (tense) というものがあり、英米人は、非現実 (考え) の内容を文章にすることが可能である。非現実の世界は独立した三世界 (過去・現在・未来) に分かれている。それぞれの世界が白紙の状態にあるので、自分自身の考えでその内容を埋めなくてはならない。だから、英米人は、思春期になって言語機能が発達してくると、’考える人’ になる。これが、高等教育を始める適齢期である。非現実の三世界があると世界観を持つことになる。すると、これを基にして現実を批判できる。かくして、批判精神の持ち主となる。
我々日本人も、日本語と英語の両言語を熱心に学び、時制の有用性を十分に理解して、自分の考えを持つべきである。さすれば、国際社会においても、信用されるようになる。そうでなければ、つかみどころのない人間にとどまる。

(略)


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