>西欧人は”絶対的自己規定”であり、対して、日本人は”対象依存型の自己規定”であるという、言語学者の鈴木孝夫氏の見解ですが、 「和を以って貴しと為す」という精神が、連綿として日本人の心理に作用しているのかも知れませんね。
英米人の場合は、哲学があるから ‘絶対的自己規定‘ になりますね。Everyone needs a philosophy. 自分の考えに忠実であれば良い。
日本人は、無哲学・能天気ですから、’対象依存型の自己規定’ になるのでしょう。依存する対象を探さなくてはなりません。 その時に「和を以って貴しと為す」という精神が必要になります。
>西欧人の「相手の主張や気持ちとは一応独立して自分は少なくともこう思うという自己主張」「強烈な自己主張を相手にぶつけて自分を分ってもらう」に対し、日本人の「他人が意見なり願望なりを言葉で明確に表明しないうちに、それを察知勘案して主張する」「自分を相手に同調させ、相手の気持ちになって」というところです。
そうですね。日本人は、自分に考えがないのですから、あとは気配りに専念することになりますね。自己実現の願望は、想定外になっていますね。
>一方で、日本でも我が強過ぎるという人もいるのでしょうが、一般的には、”ガンガン自説を通す”事に違和感を持つこと自体が、日本人に対象依存型自己規定という概念がある証拠とも言えないでしょうか?
考えの内容は、各人各様ですからね。聞いてみなければ分かりませんね。個人に考えのあることは、当然のことですからね。
>絶対的自己規定を概念に持つ西欧人にとって、それは当たり前の事であって違和感はないと思われます(経験はないですけど)。
そうですね。彼らには、世界観がありますからね。自分がどのような世界に住みたいかは、考えて当然な事柄です。
>肝心の、国語(日本語)の構造に基づく概念(思考方法)がどのように形成されるのか、外国語との比較については、まだ考えが及んでおりません。
そうですね。国語と外国語との比較が必要ですね。
> 「あまりにも同質的な文化、民族、宗教が対象同化の心的構造を生んだ」という主張があるようですから、日本人は言葉の厳密な定義をせずとも分かり合えるが、混合(異質)された文化を持つ西欧人にとって、言葉の厳密な定義をもって共通認識をせねばならなかったとも思えます。
そうですね。我々日本人には、異文化を持つ人々との共通認識を持つことも必要ですね。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調しています。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」
>論理的思考の差は、そこら辺にあるのかなとも思っております。
そうですね。いかなる場合にも文章にして語ることが大切ですね。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
矛盾を含んでいない文章は、全て正しい考えを表している。だから、正解は一つではない。幾らでもある。
矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば正し考えを示すことになる。だから、対話・議論により正しい考えを得ることも可能である。対話・議論は正しい考えを得るための良策である。
.