1945年9月9日のことです。昭和天皇は、明仁皇太子に ‘ゆるしてくれ 敗因について一言いはしてくれ’ と書いています。天皇の指摘する太平洋戦争の敗因は3つありました。
(1) 我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである
そうですね。日本人は、常習的に忖度 (推察) を使いますからね。忖度は、当人の勝手な解釈ですから、自己欺瞞になります。一億人の自己欺瞞がわが国を破滅の道に追い込みました。
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落のように述べています。
、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、
西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)
(2) 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
日本人には、意思 (will) がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というもがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。それで、優柔不断・意志薄弱に見える。人々は、精神を鍛える必要を感じている。日本人には、意思はないが恣意 (self-will) がある。恣意 (私意・我儘・身勝手) を鍛えて、意地・根性・大和魂とする。武芸の稽古を通して、動作の機敏さを養う。これにより機敏な人間にはなるが、理性判断は得られない。だから、科学を教えても、それが必要な時には役に立たない。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。
(3) 明治天皇の時には 山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独の如く 軍人がバツコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつたからです
日本人には考える力がない。だから、他人の指示通りに動くしかない。それで、猪突猛進・筋金入りの人間ができあがる。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取ることができます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
.
(1) 我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである
そうですね。日本人は、常習的に忖度 (推察) を使いますからね。忖度は、当人の勝手な解釈ですから、自己欺瞞になります。一億人の自己欺瞞がわが国を破滅の道に追い込みました。
カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落のように述べています。
、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、
西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)
(2) 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである
日本人には、意思 (will) がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というもがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は無く、日本人には意思がない。それで、優柔不断・意志薄弱に見える。人々は、精神を鍛える必要を感じている。日本人には、意思はないが恣意 (self-will) がある。恣意 (私意・我儘・身勝手) を鍛えて、意地・根性・大和魂とする。武芸の稽古を通して、動作の機敏さを養う。これにより機敏な人間にはなるが、理性判断は得られない。だから、科学を教えても、それが必要な時には役に立たない。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。
(3) 明治天皇の時には 山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独の如く 軍人がバツコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつたからです
日本人には考える力がない。だから、他人の指示通りに動くしかない。それで、猪突猛進・筋金入りの人間ができあがる。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取ることができます。その一例を以下に掲げます。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
.