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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

内田樹氏

2019-05-10 22:03:43 | 政治


>日本人にとって自由とは何か? >内田樹氏が表題の記事を書いています。 >自由とは日本人にとってリアリティの無い言葉。> 引用させてもらいます。 >リンク >(以下引用)
>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
> ■外国から到来した借り物の言葉
> 「自由」という語がlibertyやfreedomの訳語に採択されたのは明治以降ですね。

そうですね。

>それまでも仏教用語としてはあったようですけれど、「やまと言葉」には存在しない言葉だと思います。 >「自由」は手元の古語辞典にも日本語源辞典にもありませんし、僕自身の読書体験を思い起こしても、古典文学で「自由」なんて文字列を見た記憶がありません。 >日本人の生活文化にはまったく根づかない「借り物の言葉」だったんだろうと思います。

そうでしょうね。

> そして、明治に近代日本の語彙に登録されてから150年経ったけれど、未だにこなれた日本語になっていない。 >単語としては存在しているけれど、意味を受肉していない。 

自由 (liberty, freedom) は、アンリアリィティ (非現実・考え・概念) の単語ですから、リアリィティ (現実) の中には存在しませんね。

> (途中略)
> ですから、改めて「自由とは何か?」と問われたら、外国から到来した借り物の言葉で、日本人はその語に今もリアリティを感じることができずにいる、というのが答えになるんじゃないですか。

そうですね。非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するには、その文章を理解しなくてはならない。だから、人は ‘考える人’ になる。
日本語は、写生画の言語である。現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。考える必要は無い。日本人は、無哲学・能天気のままでいる。

> ヨーロッパの場合だったら、その語が出現してくる歴史的な必然性がある。>古代ギリシャには奴隷と自由民という身分制があったし、中世には自由都市があり、ギルドや組合というものがあった。 >いずれもローマ教皇や神聖ローマ皇帝や国王や地方領主の支配を押し戻して、裁判権や免税権などの特権を確保するための組織です。>さまざまなレベルでの政治権力からの干渉に対峙していた人たちにとって、「自由」というのは具体的で、生活実感にしっかりと根ざした、持ち重りのする言葉だったと思います。

そうですね。ヨーロッパ人の場合は、人もアニマルも家畜同然でしたからね。.自由の身になることが大切なことでしたね。

> (途中略)
> だから、「日本には自由はない」と言っていいと思います。

そうですね。日本には自由は無い。だが、昔から不自由はあった。不自由を常と思えば不足なし。

>勘違いして欲しくないんですけれど、日本には「その代わりになるもの」がある。

>■私は自由人です。凡人ちゃいます
> 日本人にとって、気が楽になるとか、心持ちが落ち着くとか、肩の荷が下りた気がするとかいうのは「自由を達成した」からではないんです。>すべての外的な干渉を退けて、自分の思いの通りのことを実践するということを日本人は本当は望んでいない。>だって、そんなの大変そうだから。
>それよりは、ほっとしたい、気楽でいたい。

そうですね。それは、社畜・家畜の身分ですね。それは、帰属意識を満足させます。

> 集団の中にいると、さまざまな相互に矛盾したり対立したりする要請を調整しなければならないということがあります。

日本人は、矛盾の存在には頓着しませんからね。理を通すことには興味がない。

>それがうまく折り合って、「落としどころ」に話が落ち着いた時に、日本人は解放感と達成感を覚えます。
> 理不尽な要求をされても、身勝手なことを言われても、それでも、あちこち走り回り、あちらの顔も立て、こちらの言い分も通して……というような困難な調整を果たして、もろもろの干渉が相互に相殺されて、一種の「ニュートラル」状態を達成した時に、日本人はなぜか深い満足感を感じる。
>これはどう考えても、ヨーロッパ的な「自由」とは似ても似つかぬものです。
>(途中略)
> だから、日本人はヨーロッパ的な意味での「自由」を求めていないんじゃないかと思います。

そうですね。意思のない人間には、自由も必要ありません。

>だって、日本社会で「私は自由に生きています」とアピールする人は総じて緊張しているから。>でも、おでこに「私は自由人です。凡人ちゃいます」というシールを貼って、こまめに周りの承認を求めようとするなんて、野暮ですよ。

自分に理解のできないことをしゃべっているのですね。

> ユーラシア大陸の辺境に位置する日本列島には、外から次々と新しい集団が到来し、新しい文物が流入しました。 >そして、そのつど対立せず、排除せず、折り合いをつけてきた。

全てを丸のみにしましたね。

「そちらにはそちらのお立場が、こちらにはこちらのメンツが。どうです、一つナカとって……」というのが日本における問題解決のもっとも成熟したマナーでした。

それは、痛み分けですね。足して二で割る解決法ですね。’あるべき姿’ の内容は、必要ありませんね。

> それは正解を得るための方法ではないのです。>いざこざを避けるための作法です。

対症療法に徹していますね。

>原理を貫徹する、信教や思想に殉じるということを日本人はあまり好まない。

そうですね。日本人に、信教・思想は関係ありませんね。信教・思想は非現実 (考え) の内容ですから。

>それよりは非妥協的な対立を折り合わせる調整能力が尊ばれる。

日本人は、調整能力万能ですね。

>■「三方一両損」の生存戦略
> (途中略)>  欧米風というのは、自分のやりたいことを旗幟鮮明に掲げて、そのアジェンダに賛成する人間を登用し、反対する人間は排除するというシンプルなものです。>その方が「話が早い」と人々は信じている。

そうですね。人により意見が違いますからね。

>でも、日本人はちょっと違う。

そうですね。日本人には、意見がない。だから、誰も意見に着目しない。

>「いや~、悪いねえ。どう、今回はちょっと泣いてくれない? いや、悪いようにはしないよ。次には必ず埋め合わせするから」みたいなやりとりのことを「仕事」だと称している。

それは、根回しですか。

>欧米のビジネスマンだったら、「そのどこが仕事なんだよ」と怒り出すでしょうね。> でもそれは、しようがないと思うんです。 >「相容れない立場をなんとか折り合わせる能力」こそが列島住民が生き延びるために優先的に開発してきた資質なんですから。

日本人は、自分の ‘あるべき姿’ を説得に利用することができないのですからね。

>列島住民たちはそういう生存戦略で2000年くらいやってきたわけで、今さら変えろといわれても無理ですよ。> (途中略)> でも、僕はそれが「悪い」と言ってるわけじゃないんですよ。>そういう定型的な生き方をする人たちが求めているものは「自由」ではないと申し上げているだけです。

まったくその通りですね。わが民族の絶えるまでですね。

>たぶん彼らが求めているのは、ある種の「調和」なんだと思います。

なーなー主義ですね。

>「調和」と「自由」とはまったく別物です。

そうですね。意思のない人は調和を求める。意思のある人は自由を求める。

> そして、日本人は「調和」のうちに安らぐことを、ヨーロッパ人が「自由」のうちに安らぐことを求めるのと同じくらい切実に求めているのであって、それはそれで一つの「種族の文化」だと思っているのです。

‘東は東、西は西’ ですね。

> (引用終わり)


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必要語彙数

2019-05-10 16:44:02 | 言語

>「語彙とカバー率」という比較があるそうだ。>「カバー率は、おおまかに言えば、ある語彙数でその言語をどの程度理解できるかを示している」リンク

それが、高文脈文化 (日本) と 低文脈文化 (外国) の違いになるのですかね。

>代表的な言語について理解可能になる必要語彙数は「フランス語では頻度順上位1000語、英語、スペイン語はもとより、ロシア語、中国語、朝鮮語でも2000語を知っていれば約8割理解できるが、日本語では同じ水準になるのに上位5000語が必要になる。上位3000語をマスターすれば、フランス語、英語、スペイン語では約9割が理解できるが、日本語では同じ水準になるのに上位1万語が必要になる。」のだそうだ。>必要語彙数が多いという意味で、日本語が「難しい言語」という外国人は多いという。

日本語の敬語が難しいということを外国人から指摘されたことがありますが、それも関係がありますかね。

> 一方、日本語の特徴は「語らない言語」だ。>古来から多くを語らないことを決してマイナス評価しない。

そうですかね。雄弁は、成り立ちませんね。

>言わずとも通じる事は言う必要がない。>だから言わない。

日本人は、周囲の人たちの忖度 (推察) に期待しすぎてはいませんか。

>この判断に乏しい人は、時に「無粋」とか「空気を読めない」などと評価される。

周囲に気を散らすのは、内面が空虚だからでしょうね。

>逆に、表面的には寡黙だが内面に厚い人情をもつ人(たとえば高倉健)は、その行動から察してプラス評価される。

‘沈黙は金’ ですか。Silence is golden.

>そうなると「多くを語らぬ日本語を理解するのに、多くの語彙力を必要とするのは何故か?」という疑問が生じる。

そうですね。わが国では、文章にならないバラバラな単語 (小言・片言・独り言) と忖度 (推察) の活用が発達しているからでしょう。文章にならなければ、相手の理解を得るために余計に単語の数を増して使わなくてはならなくなります。
司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。
「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」

>リンクによると、>・外国語を取り入れ易いので語彙が増える(カタカナ語) >・心理内容を表す感情関係の語が非常に豊かである >・擬情語(イライラ、ムシャクシャ、ヤキモキなど)が多い > などがあるそうだ。> 特に、心理内容を表す感情語が多いのが特徴という。>たとえば「悔しい」に相当するフランス語、「もったいない」「さりげなく」「無心に」「あやかりたい」に相当するアメリカ英語、「懐かしい」に相当するドイツ語は、いずれも存在しないといった具合だ。

日本人は、外国から感情語を取り入れたようでもありませんね。特亜三国 (日本・中国・韓国) の間でさえも、感情語が一致しませんでしょう。

>そうなると、日本語を理解するのに多くの語彙力を必要とするのは、他の言語と理解のポイントが異なるから、という仮説が成り立ちそうだ。>すなわち、日本語は、意思疎通の力点が「感情」におかれている。

益々日本人は、感情・情緒の人間になるようですね。

>そのうえで、感情とは「その気持ちわかる~」といった具合に共感することが理解に等しい働きをもっている。

日本人は、理解の上に共感を置くのですね。理解し合えないというのは、困ったことですね。山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

>そして、感情とは“機微”という言葉があるように微妙な変化をもつ。

理解は不変、機微は可変ですね。

>互いに共感=同じ気持ちになるためには、微妙な変化に相当する多くの語彙が必要、ということになるのではないか。

そうですね。理解の方には注意が集中しないようですね。

> 我々日本人にとって、共感が成立しないもしくは拒んだ状態の会話は、どれだけ饒舌に語っても表面的な会話と感じられる。

‘なあなあ主義’ が成立しないからでしょうね。

>他方、言葉は少なくても、共感が成立した会話は深いと感じられ記憶に残る。

‘阿吽の呼吸・つうかあの仲’ の成立ですね。

>このように考えると、日本語を理解するには語彙力は二の次の課題と思えてきた。

そうですね。日本人は、’感情・情緒の人間’ ですね。とらえどころがない。

>最も重要なのは、互いに共感できるか、相手を無条件に肯定視できるか、ということではないか。

そうですね。無防備であっては、相手に騙される。これは、自然界の掟です。

>共感する感情に相当する語彙は必要であるものの、それは共感することを助ける(固定する)ものであって、第一義ではない。

そうですね。語彙の上に忖度が存在するのでしょうね。

>・・・語彙力以前の問題となると、いよいよ欧米人には理解できないかもしれない。

そうですね。語彙力以前の問題は、数値化しにくいでしょうね。文法の問題になるかもしれませんね。

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