>最近では「仕方なく生きてる」若者が増えていると聞きます。>1990年代の「自分探し」から、2000年代の「やりたいことが見つからない」という意識潮流から時を経て、現代では「仕方なく生きてる」という、若者がまるでゾンビ化しているようです。
無哲学・能天気な人間は、退屈男・退屈女になりますね。
> 社会に適応するには、それに応じた欠乏(内圧)が生じますが、今や欠乏の中身は何も無いことになります。
海外協力隊にでも入って、外国を見てくると良いですね。
> 次代を担う若者がこのような状況では、お先真っ暗ですね。
そうですね。人間教育が必要ですね。
> 一体なぜ、このような状況になったのでしょうか。> 歴史を振り返ってみると、そこには必然の理由があることに気付きます。> 若者に限らず、現代社会の最大の問題点である「思考停止」という構造が浮かび上がってきます。
そうですね。無哲学・能天気である日本人は、思考停止の状態にありますね。
>◆無思想・無気力・無関心
>いわゆる三無主義、団塊世代の次の世代に言われた言葉ですね。>1970年頃から言われはじめ、これに無感動を足して四無主義とも言われます。
日本人には、意思がない。ですから、優柔不断・意志薄弱に見えます。精神の修養が必要であると考えられることも多いようです。先の大戦では、日本人は精神主義に頼りすぎて自滅したようです。
>それ以前は、貧困の脱出を目的とした近代観念(個人主義、民主主義など)に誰もが収束し、昔のエリートなどは近代観念で社会は良くなると本気で信じていたし、勉強していたものです。
個人主義と民主主義は、日本人にとって難しい概念ですね。個人主義は利己主義と間違えられ、民主主義は衆愚政治になりやすいからです。
>ところが1970年、貧困の消滅(豊かさの実現)とともに、近代観念が否定していた対象がなくなると、近代観念は急速に意味を持たなくなり、誰も信じなくなりました。>同時に何も考えなくなり(思考停止の始まり)、することがなくテレビや娯楽に埋没し、更なる思考停止状態となっていきました。
そうですね。
全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。
非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するためには、その文章を理解する必要がある。だから、聞き手は ‘考える人’ にならなくてはならない。それは、骨の折れることである。
現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。考える必要は無い。楽ちんである。人は、思考停止に陥っている。
見ることのできる内容は、’本当’ のことである。見ることのできない内容は、’嘘’ である。誰しも、見て来たような嘘つきにはなりたくない。だから、自分の非現実 (考え) を口外するには至らない。かくして、思考停止の状態は、実現している。
>◆学校制度、試験制度の弊害
>もう少し時代を遡ると、明治時代から始まった学校制度、試験制度のその要因が見られます。> 江戸時代の寺子屋では自然圧力の中で生きる知恵を学んでいたのに対し、学校で学ぶのは試験のための知識を暗記することです。
そうですね。学校で学ぶ内容は、一種の序列競争の為ですね。
>とりわけ1970年代に受験ブームになると暗記脳が顕著になり、さらに追求力・自考力が衰弱し、現在の思考停止に繋がっています。>1970年代に暗記脳が顕在化したのは、貧困の消滅に伴い家庭が無圧力空間となり、家庭には子育て課題しかなくなり、母親の囲い込みによる勉強圧力が受験に向かわせたことによります。
思考停止による空白の脳裏には、暗記による知識の注入が必要になりますね。かくして、頭でっかちの人間が出来上がります。
>◆否定発の思考パラダイム
>根本的な要因は思考のパラダイムにあります。> 近代観念、とりわけ個人主義などは他の一切を捨象して自我を正当化した観念であり、さらには古代宗教も現実を否定して神などの架空観念を絶対化したにすぎません。
非現実の内容は、現実とは関係なく絶対化が可能ですが、日本人には、残念ながら非現実がない。だから、現実の中に絶対の内容を見つけようと躍起になっている。それが、とても奇妙な格好に見えます。
山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、日本人の絶対化について述べています。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と述べています。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
>人間は観念動物ゆえに物を考える際には観念が必要となりますが、その観念自体が否定のパラダイムに覆われているということです。>1970年、貧困が消滅し新たな可能性が開けたにもかかわらず、また現代の閉塞した社会に対して何の答えも出せないのは、否定発・問題発の思考パラダイムに洗脳されているために思考停止になっているからです。
わが国の論客は、 ‘ああでもなければ・こうでもない’ と言っている。’あれではいけない・これではだめだ’ と力説する。だが、自分はどうであるかは、決して言わない。自分には、考えというものがないからである。
>このように、「仕方なく生きてる」ことを掘り下げていくと、「思考停止」という大きな壁が見えてきます。>これは若者に限らず、三無主義の時代から続くもので、今や社会の基底部にある最大の問題ともいえます。
そうですね。無哲学・能天気は、我々の最大の問題ですね。
> 根本的な要因が「思考停止」にあるならば、否定発・問題発の思考パラダイムを捨て去り、可能性発の思考へと転換することで道は開けてきます。
そうですね。我々日本人が世界観を持てば、未来社会に対する建設的な考えをまとめることができますね。
英文法には、時制というものがある。時制のある文章内容は、独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができます。各々の世界は初めに白紙の状態にあるので、英米人は白紙の状態が気になって仕方がない。だから、彼らは、おのずと ‘考える人’ になる。自分なりに三世界を内容で埋めたら、それはその人の世界観になる。自己の世界観を基にして現実の内容を批判すれば、批判精神を発揮したことになる。日本語には時制がないので、日本人には批判精神がない。
我々日本人も日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを理解して自己の考えを文章にできれば、思考停止の問題は解消します。
>これまで見てきたように、現代的な壁や課題を追求し突破するためには、歴史をとことん遡り、どこに可能性の実現基盤があるのか探る必要があります。>私たちが歴史を学ぶ理由もそこにあります。
自己の世界観に基づいて歴史を表せば、立派な歴史書が完成しますね。
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