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川崎市立日本民家園・神奈川の村

2016-05-08 16:08:57 | 川崎市立日本民家園
写真は川崎市多摩区生田にあった、棟持柱(むなもちばしら)の木小屋と呼ばれる建物で、
薪や落ち葉などを蓄えておく小屋だったそうです。建てられたのは大正十三年と比較的新しいのですが、
原初的な家の構造と通じるものがあり、見てもわかりやすいので、民家園に移築したようです。

川崎市立日本民家園、神奈川の村の記事です。
このエリアに来た頃にはけっこうくたびれてしまい、写真が少なめの上にブレ写真も多くなっていました。
みんな神奈川の家だし、そんなに大きな違いはないだろうと思ったせいもあって気を抜いていたようで。。。
しかし解説本を読んだら、重要な差異のある民家を集めていて、その辺がちゃんと比較できるようになっていたのです…!
あー、、もっとしっかり見とけばよかった………。
それぞれの民家の解説を書いてるのは、当時移築にたずさわって直接指導をしたりした大学教授や工学博士とかで、
さすがに行き届いたコンセプトなのでありました。あうう。


棟持柱とは、屋根の背骨にあたる棟柱を端で直接支える二本の柱です。ちょうどこの写真の真ん中にある太めの柱ですね。
それと、柱が直接土に埋め込まれる堀立式である点が、古い家の造りに近いそうです。
柱が堀立式だとくさりやすく、長持ちしないので、この形式で造られた民家は残っていないらしいです。
でも近代まで一般庶民の多くは、こうした祖末な堀立式の家に住んでいたんですね。
加えて、戦前ぐらいまでは、床のない土間住まいの家も地方によってはまだ多かったようです。


丹沢山塊のふもとにあたる秦野市大字堀山下にあった北村家。
この家には、梁の上部に建てられた年号や大工さんの名前を記した墨書きがあり、
年代の確定している東日本の民家のうちでは二番目に古い家で、貞享4年(1687年)に、
理兵衛・源兵衛という二人の大工(おそらく棟梁)によって建てられたことがわかっています。
北村家の特徴は、内外ともに壁が少なく、開放的で明るいつくりになっていることだそうです。


いろりは竹をつかった自在鉤にぶら下がっていますね。

宮本さんの「日本の村・海をひらいた人々」に、この辺りのくわしい話がありまして、
主に東日本では土器を上からぶら下げて煮る縄文方式、西日本は石を三つすえて、その上に土器をのせて煮る弥生方式だったそうで、
縄文式土器はぶらさげる縄を通す耳がついているものが多いのですが、弥生式土器には少ないそうです。
また、のせて煮る弥生型は、やがてこしきを敷いて蒸す形になったそうです。
のちの古墳時代になって中国からかまどが伝わり、早くから西日本に広まりました。
なので、沖縄では三つの石をカマドの神とまつったり、宮崎の山中ではカマドの神は三つの石と言われたりしていたそうです。


北村家では、土間といろりのある広間には、かなり高さの差があります。
くわしく見てゆくと、かなりすぐれた造りになっているそうで、当時の秦野地方の村大工のレベルの高さがわかるんだそうです。


汲み桶。これが何も入ってない状態でもかなり重そうなんですよね……。


川崎市多摩区登戸にあった清宮家。清宮家は、実際に建てられた正確な年代はわかっていないようですが、
前記の北村家より古い造り、つまり壁が多く閉鎖的で暗いんだそうです。

どうも古い時代の民家ほど閉鎖的、つまり外敵に対して防御的な造りになっているようです。
開放的な北村家が造られたのが1683年ですから、えー、江戸幕府が成立したのが1603年。それから80年もたって、
その頃にはだいぶ地方の人々の暮らしも安定してきて、以前ほど外敵を警戒しなくてもよくなったのかなあと思います。
逆に、この清宮家が建った頃のこの地方には、まだ完全には気の抜けない雰囲気があったのかも知れませんね。
あと、信越や東北などの寒い地方では、寝具や着物が行き届かない時代は、寒さ対策に閉鎖的な造りになったそうです。


清宮家の特徴は、この植物を植えた芝棟。紫色の花はイチハツ(一初)といって、あやめの仲間です。
屋根の頂上を土の重さでおさえ、その土が落ちないよう植えたもののようです。魔除けの意味もあったようですね。


土間の「でえどこ」には色々な道具が置かれています。


清宮家の特徴は、この土間とひろまの境で、こうして格子窓が設けられています。
これが神奈川の村を見る時の一つのポイントでありまして、私も民家園にいた時は気がつかなかったんですが、
土間とひろまの境が、それぞれちょっとずつ違うんですよ。。。
北村家には柱だけ残っていますが、清宮家には格子窓があり、後述する伊藤家では上の格子がなく、低いたなになっています。


ひろまは外に面して格子窓(シシマドと呼ばれる)が設けられていますが、出入りすることはできないようになっています。


川崎市多摩区金程にあった伊藤家。大体三百年前頃に建てられた家のようです。
この規模の家は、一つの村に大体一、二軒ぐらいだったようです。
伊藤家は神奈川県で初めて重要文化財に指定されたそうで、この家の保存運動をきっかけに誕生したのが民家園だそうです。
なんと大事な踏み出しだったことか…!


古くは、神さまは「へや(主人夫婦の寝室・閉鎖的で暗い)」に夜下りて来るものだったようで、
煮炊きをする土間にカマドの神さまがまつられるようになった理由はなんだろうと、宮本さんの本読んでて考えたんですが、
一つには、火を起こすのが昔は大変だったことと、もう一つはカマドに煙のたつことは食物を煮炊きできる、
つまり食べ物があることを意味し、カマドに火の絶えないことが、家の続くことを意味するようになったのかも知れないなあと。
実際、何十年何百年と、火をたやさないようにしている家が、昔は結構あったんですよね。
で、火を絶やさないようにするのは主人夫婦の妻の役目だったそうです。
たしかそんな話、まんが日本昔話で見たおぼえあるなあ。
お嫁さんが居眠りしていろりの火を絶やしちゃって困ってるのを、謎の何かに助けられてまた火をつける話。

囲み居て 憂へさまよひ 竈には けぶり吹き立てず こしきには 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れて(山上憶良・貧窮問答歌)

高き屋に登りて見れば煙立つ 民の竈はにぎはひにけり(仁徳天皇・新古今和歌集)

上のようにかまどについては古くから歌がありますが、かまどに煙のたつことは、
人の暮らしが成り立っていることが外から見てわかる、重要なしるしだったのかも知れませんね。
それにしても、夜へやに下りて来る神様がかまどの神様になったのか、それとも別々の神様が一つになったのか、
どうなんでしょうね・・?


みそべや。かつて味噌は自家製がふつうだったんですね。
家の周囲にあたる部分で、屋根が低く下りていますが、これを四方下屋造といい、神奈川県の古民家に典型的な形だそうです。


ちょっとわかりにくいかもですが、土間とひろまの境にある柱の間に、低く板が張られていますが、
これが棚になっていたようで、いろりの風よけにもなっていたようです。よく見てなくて後悔しきり……。

でも、とまあこんな風に、土間とひろまの境にある障壁が、時代が新しくなるにつれ取り払われて来たようで、
これももとは二つ家だった分棟型が、さらに進んだ形かなあと思います。
こうして一間ごとにある三本の柱も、さらに時代が下ると中央の一本だけになり、その一本は荷重をもたすため太くされ、
大黒柱と呼ばれるようになります。だから大黒柱って、わりと時代が新しいんですよね。

ちなみに大黒柱は、今の家では使われないそうです。この解答、なかなか面白いですよ。
大黒柱は田の字の間取りでないと意味がないとか、今の家は柱と壁をバランスよく分散して建てるとか、
屋根の梁まで届くような大黒柱は今は取れないとか。にゃーるほどなあ。

というわけで、川崎民家園に来ましたら、神奈川の村エリアでは、土間とひろまの境に注目してみて下さい。



おおよそ豊臣秀吉が天下統一した桃山時代ごろから一般の大工さんの技術がかなり上がり、まずは関西に始まって、
民家でも立派なものが建てられるようになっていったようです。
この民家園にある家は、ほとんど江戸時代中期、17世紀末頃からの家のようです。
東日本ではそれ以前には、今に残るほどの家は建てられなかった。でも関西にはもっと古い民家が残ってると思うんですよね。
西日本にはこういう民家園とかあるのかなあ。行ってみたいなあ。しかし充分下調べしておかないと。
川崎の民家園みたいにそうそう気軽には行けないからな。。。


川崎市麻生区岡上の東光院内にあった蚕影山祠堂(こかげさんしどう)。養蚕の神様をまつっているそうです。
これもですね、、インドの金色姫が日本に流れ着き、蚕の神様として祀られるまでの説話が浮き彫りになっていたようなんですが、
さっと外観流し見しただけで通り過ぎちゃったんですよ。。。くうう。
しかし、絹のなんと村の暮らしに入り込んでいたことよ。


愛甲郡清川村の煤ヶ谷にあった岩澤家。屋号をオキといい、炭焼きを中心に焼畑や林業に従事していた家だそうです。
煤ヶ谷という地名に、オキというのは燠火の燠かしら。。。

このひろま前面にもうけられた「ししまど」、古くは獣をよけるため、外敵侵入に対する防御的に備えられていたものが、
形式として残ったもののようで、これもいずれ取り払われ、開放的になってゆきます。
千葉では「はんど」、茨城では「さまぐち」と呼ばれていたようです。


桶、水瓶などのたぐい。金属バケツは現代のですね。

田のつくれない山間部では、焼畑が重要で、燃え広がらないよう木を上手に切り払って焼いたそうです。
朝鮮半島では焼畑を火田といい、山から山を渡り歩いて耕作する火田民という放浪農民があったそうです。
で、この「ヒタ(火田)」が、「ハタ(畑)」になったのではないかと宮本さんは書いています。

焼畑は、焼いた直後は土が大変肥えていて、まず一年目にはヒエやアワをまき、
少し土地のやせてきた二年目には肥料を吸う力の強いソバ、三年目には肥料のあまりいらない豆、
そのあとには土もめっきりやせてしまうので、次の土地に移動してまた焼畑を行う。
二、三十年ほっておくと木が生えているので、またそこで焼畑を行う。こんな感じで巡回していたようです。
この移動性の農耕で成り立っていた焼畑を定畑にするには、土地がやせてくると牛馬を放すことで、
これを牧畑といい、牛馬が雑草を食べてフンをして土地を肥やしてくれるわけです。
また、段々畑のだんだんは、肥料が流れ落ちないないための工夫でした。
定畑の苦悩は土がやせてゆくことで、このために肥料がとても大事だったんですね。


岩澤家は17世紀末期から18世紀初期頃に建てられたようで、まだ閉鎖的で暗い造りです。


お茶をつくるホイロという道具。岩澤家ではお茶もつくっていたようです。
お茶は、山間部で霧の下りる所でよくできるらしいです。そういえば静岡の茶所でもスプリンクラーで水まいてますよね。

お茶やたばこなどの嗜好品は、軽く持ち運びもしやすく高く売れるので、不便な土地などでは好んで作られたそうです。
たとえば遠い町まで産物を売りに行く時には、近くの村でこんにゃくとかの重いものを先に売ってしまい、
高く売れ保存の効くものを町まで運んだそうです。色々考えて工夫していたんですね。


これは、どこの家のだか忘れましたがトイレです。けっこう立派な造りのトイレではないでしょうか。
私は母の実家のある栃木の田舎で、もっとすごいトイレに入ったことがあります。
もとは厩だったのかな、、外にある納屋の片側にあって、納屋の壁はすのこみたいなもので通気性がよく、すばらしく開放的で、
丸い穴の両端に板が渡してあって、そこに両足をのせてするという、ワイルドかつスリリングな造りになっていました。
こういうトイレを経験してるのって、多分私ぐらいの年代が最後なんじゃないかなあ。


川崎市多摩区菅にあった船頭小屋。これはあれです。モバイル小屋なんです。
菅の渡しという、川崎側の菅と、東京側の調布を結ぶ渡船場だったそうで、
多摩川が増水すると担いで移動できるようになっていたそうです。便利だねい!


中にはいろりがあり、ちょっとした茶室のようですね。ここで船頭が客待ち、休憩、川の見張りなどをしていたそうです。


北村家の庭に飾られていた五月節句の武者幟。頭に布を巻いてるのはきっと上杉謙信ですね。

民家の造りについて読んでいて、戦国時代っていつ頃だったんだろうとwikiを見たら、
大体1467年の応仁の乱を始まりとするようなんですが、終わりについては秀吉の時代だとか信長の時代だとか、
あるいは関ヶ原の戦いか、大阪夏の陣までだとか、諸説あるようです。
とにかく、室町時代や安土桃山時代とも重なる区分なんだそうです。へええー。。

でもやっぱりこの、戦国の荒れた世と安定した世とでは、庶民の家の造りもおのずと違ってくるのは至極当然ですよね。
その辺の違いについて注意のいったのが神奈川の村でした。
また大変気になるのは、いったい戦国時代など、たとえば今ならどの地方を誰が治めていたか調べれば大体わかるけれど、
当時の庶民はどれぐらい知ってたんだろうと。
戦国の世でも税は納めていただろうから、何も知らないわけではなかったろうけれど、
武将の個人名とか、勢力地図とか、また戦況や世の情勢など、どれぐらい知ってたんでしょうかね?
また、名主階級の農民とそうでない人々とでは、だいぶ理解も違っていたんじゃないかと思いますし。。
というわけで、それに対する答えがのっているかわかりませんが、戦国時代辺りの知識が私は乏しいので、
中公文庫の日本の歴史の「戦国大名」と「下克上の時代」の巻をAmazonに注文しました。
んー、あんまり戦国武将の話とか好きじゃないんですけど、重要な時代ってのは間違いないですもんね。
ていうか、ほんとこの辺の歴史って、頭の中でごっちゃごちゃになってるんだよな。。。
そうそして、こういう教科書みたいな本は電子書籍ではダメなんです。
パラパラパラパラあちこちいったりきたりめくれるようでないと。
ちなみに民家園の記事を書くにあたって読み返しているのが、宮本常一さんの「日本の村・海をひらいた人々」という本です。
戦後まもなく、少年少女ぐらいの年齢向けに書かれたもののようで、大変読みやすいです。

ちなみに宮本常一さんは、信長秀吉家康どの武将も、まあ天才ともいえるかも知れないけれど、
大変エキセントリックで精神的に不安定な人であり、これはかつての日本の栄養状態が、
ひどく偏っていたせいではないかと言っていました。
たしかに当時は豊かな家でも栄養バランスなんて考えてなくて、腹がくちければいい!あととにかく米だ米!
それにご飯をかきこむためのやたらしょっぱい漬け物と汁!みたいな感じだった気はしますね。


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